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仙台の地名は、伊達政宗公によって命名されましたが、この場所の発展の歴史は多賀城に始まります。
多賀城の鬼門に陸奥一ノ宮として塩釜神社が、裏鬼門に当たる場所に陸奥国分寺が建てられました。
1189年、源頼朝が奥州藤原氏を攻めたときに、藤原泰衡が榴ヶ岡に防御のための館を築きました。
この場所が陸奥国分寺の領地である国分荘(こくぶんしょう)と呼ばれる地域で、館は「国分鞭楯(こくぶんむちたて)」といいました。
楯を築くほどですから見通しの良い地形で、防衛施設を置くには最適の場所です。陸奥国分寺が見下ろせ、そこを通る東街道も見通すことができました。
政宗以前の領主だった国分氏(国分氏最後となった十七代盛重)は、政宗公の祖父の晴宗公の五男で、伊達家から国分氏に入嗣(にゅうし―養子または婿入りすること)しています。
仙台城本丸はもともと、国分氏の支城があった場所といわれています。
山形の米沢で生まれた政宗公は、奥州の地を平定していきますが、豊臣秀吉の仕置により領地を没収され、宮城県北部の岩出山(昔は岩手沢といった)に移されました。
正室の愛姫は、秀吉公の人質となり京都へ移されます。
その後政宗公は、慶長5年(1600)12月24日、仙台城本丸の地で縄張り始めを行います。
その際国分氏を支配下に置き町人として住まわせた場所が、現在東北一の歓楽街である国分町です。
時は天下分け目の関ヶ原の戦い(9月15日)の最中。政宗公はこのどさくさにまぎれて築城許可をとったのです。