〜Hexagram〜
*六芒星—ユダヤ教では神聖な図形としてイスラエルの国旗にも描かれ「ダビデの星」と呼ばれている。
日本でも古来から魔除けとして用いられ、伊勢神宮周辺の石灯籠に、籠目紋が刻まれているのは有名。
陰陽道では陽の星を五芒星(安倍晴明)、陰の星を六芒星で表し、どちらも様々な霊的攻撃から守るために使われてきた。
政宗公の兜の前立ては三日月の飾りですが、月は太陽に対して陰であることから、合わせて城下にも陰の六芒星を用いたと思われます。
開府当時の仙台城下は六芒星で囲まれた範囲で、伊達家の家臣と町人、商人などの住む居住区です。それらの人々を霊的攻撃(魑魅魍魎-ちみもうりょう)から守るために六芒星の結界を張ったのです。
星型の外周を囲むと亀甲(寿)となりそれも結界として見ることができます。
当時の人たちはお家の存亡にかかわることに関して、幾重にも守りを固める手段をとりました。
六芒星は東西南北に正対しておらず15度傾いています。それは鬼門ポイントに頂点を合わせるためと考えられます。
仙台の町割りが六芒星をなぞって作られたという証拠は、この傾きに合わせて道路が作られていることで、城下建設計画の意図を表しています。この15度の傾きが重要な要素となり、国家機密でもあったわけです。
主要神社は、伊達家4代に渡って建立されましたが
国分町から北へまっすぐ突き当りの高台にあり、北へ抜ける七北田街道を見通せます。
政宗公の神号である武振彦命(たけふるひこのみこと)と愛姫、家臣を祭っています。東隣にある東昌寺の境内に建てられました。東昌寺は、城下建設の際に最初に決定された場所と伝えられています。
東昌寺初代住職は、大有(だいゆう)和尚で政宗公の大叔父でした。のちに政宗公の師匠になった虎哉和尚を招きます。
虎哉宗乙(こさいそういつ)は、子供のころから天才上人といわれるほど優秀な人物で、政宗公への教えはへそ曲がり教育でした。
そのため政宗公は具合が悪い時も、壁によりかかってでも人に会ったと伝えられています。
神仏分離令
昔神社とお寺はペアで運営されていたが、天皇様を日本の頂点と定めたことにより、神様である天皇と仏様の仏教を対等にしてはならないという考えに変わった。ところが、ただ分けるのではなく、仏教は悪者だという間違った考えが生まれ、国がお寺にあった仏像などを破壊捨て去る行為(廃仏毀釈-はいぶつきしゃく)に出た。そこで、政宗公を守るためにご神体に政宗様を祭って建てたのが青葉神社(明治7年1874)。
現在の青葉神社宮司は、白石片倉家第16代当主 片倉重信氏。
桃山建築様式の国宝となっている素晴らしい社殿を有する、仙台城下建設当初に建築された北西の守護神社で、総鎮守社です。
伊達家が山形県の米沢から宮城県の岩出山を経て仙台に移る際に、米沢の成島八幡と岩出山の大崎八幡を合祀してここに祭りました。
六芒星の北西に位置するこの神社からは、仙台城下から西へと伸びた作並街道の出入り口を監視することができます。この場所は敵が攻撃してきた時の北西の守備の要となります。
また、大崎八幡宮の南側の坂下に流れる広瀬川には、角五郎丁という町名がありますが、その昔川を渡るための船着場があったところで、角五郎という渡し守がいたためについた名前です。
向こう岸の川内亀岡に渡すもので、仙台城から城下町中を通らずに大崎八幡宮へと至ることができ、当時、社寺が砦の役割を兼ねていたと伝えられているように、兵隊を速やかに北西に移動させることができるように町割りが考えられていたことが伺えます。
青葉山にあるため「青葉城」とも呼ばれています。
伊達家の領地だった現在の福島県にある「信夫山」を、元「青葉山」と呼んでおり、さらに「広瀬川」は福島県の梁川にあった川の名前で、仙台に城下を築く際に付けられたと伝えられています。
慶長5年(1600)城の縄張り始め、翌年に土木工事が開始され、慶長8年(1603)にはわたまし式を行ったとあり大広間を除きほぼ完成したとされます。
ここはもともと国分氏が住んでいた支城があった場所とされ、虚空蔵や千躰仏が祭られていたため「虚空蔵楯」「千躰城」「千代城」といったそうですが、政宗公が中国の仙人が住む仙台という地名をとって「仙台城」と名付けました。
仙台城の特徴は、崖にせり出した「懸造り」(眺望亭、眺えい閣)という建物でした。ここから城下を一望にでき、また城下からは北目町から柳町に入って西に向かうとこの懸造りの城が見えました。
六芒星のライン上では、ここから柳町に向かって一直線上に榴岡天満宮があります。
政宗公が鉄砲のつるべ打ちを眺めたという記録があります。
鉄砲は、片平の西側旧家庭裁判所の所から、東北大学の南側を通り、五橋から土樋を経て宮沢橋のある舟丁まで並べられました。その数2000挺。
本丸敷地内で、大町勝左衛門重吉組の30人の鉄砲足軽を置き、合図の鉄砲を撃たせると、西側からダダダダダダ・・・と3回打ったとあります。それからしばらくあとに、鉄砲のつるべ打ちは長町で行われました。
片平の時は、広瀬川(当時の記録では仙台川)の川向うの土手に向かって、長町の時には大年寺山へ向かって撃った、とあります。(貞山公治家記録より)
城下の南に位置し、広瀬川を挟んだ愛宕山の上にあります。
対岸の米ケ袋土樋より見て向い側にあることから「向山」と呼ぶようになったと伝えられています。(星の街仙台的には東昌寺(青葉神社)のある北山から見て向かい側という説)
社殿は仙台城本丸から見て巽(たつみ)の方角に建てられました。
ここから北山にある青葉神社(昔は東昌寺)までは、直線上に国分町の通りに重なり、六芒星の北と南の頂点を結んだラインで、城下としては南の午の方角に位置します。
陰陽五行説では、北の水に対して南は火となり、火の神様「火之迦具土神かぐつちのかみ」を祀っています。
また、愛宕神社の南側は茂ケ崎山との谷間に東西に伸びた道路がありますが、そこは古からの街道で「東街道(あずまかいどう)」と呼ばれていました。
仙台城下に入るためにはその街道を西に登ってゆき「鹿落ち坂(ししおちざか)」から北に下り広瀬川の川原に出ます。そのあたりに唯一の浅瀬があり、米ヶ袋に渡ることができました。
そこから片平の崖沿いに東へと進むと愛宕神社の対岸に出ます。さらに東へと街道が続くわけですが、その主要な街道の入口に愛宕神社が位置しているということは、重要な監視ポイントでもあるわけです。
他の六芒星の頂点の社寺と同じく、城下防衛の南の要としての役割を有していたことが想像できます。
三代藩主綱宗公により建立。学問・政治の神様である菅原道真公(天満大自在天神)が祭られています。昭和30年代までは「天神社」と呼んでいました。
六芒星の中で一番最後に建てられましたが、この場所の歴史は古く、城下建設の際にはすでにポイントをおさえていたと考えられます。
陸奥国分寺の領地であったこの一帯は国分荘(こくぶんしょう)と呼ばれ、領主は佐藤小太郎基春→国分氏→伊達氏という流れが見て取れます。
天延2年(974)平将春により、天満宮は往古山城国(現在の京都)から陸奥国宇多郡(現在の福島県)に歓請され、後に柴田郡川内邑(現川崎町)に遷座しました。
藤原基衡が守護職(1105~57)の時に、刈田郡白石城で謀反があり, 鎮圧に当たった佐藤治信・小太郎親子がこの天満宮で戦勝を祈願し白石城を陥落させたといいます。この恩賞で治信は国分荘を,小太郎には基春という名が与えられ, 後に国分荘領主となった佐藤小太郎基春が天満宮を玉手崎(現東照宮付近)に遷座したということです。
1189年、源頼朝が奥州藤原氏を攻めたときに、藤原泰衡(やすひら)が榴ヶ岡に防御のために館を築きました。この場所が陸奥国分寺の領地である国分荘と呼ばれる地域で、館は「国分鞭楯(こくぶんむちたて)」といいました。
天正年間(1573~1592)国分盛重(国分氏最後となった17代)が領主となり、現在の仙台城の場所に支城があったとされます。
盛重は、政宗公の祖父晴宗公の五男で、伊達家から国分氏に入嗣(にゅうし―養子または婿入りすること)しています。しかし国分氏のことは調べても謎が多く、よくわかっていません。
こうしてみると、国分氏の城(青葉山)よりもずっと以前から、佐藤小太郎基春が建てた天神社が、玉手崎(現仙台東照宮)に在ったということになります。
政宗公が亡くなると、二代藩主忠宗公が玉手崎に徳川家康公の分霊を祭ることになって、天神社は一旦境内の東側に社を遷し、後に躑躅ヶ岡へと遷されました。
二代藩主忠宗公により建立。三代将軍徳川家光公の許可を得て、日光東照宮から分霊した家康公が祭られています。
政宗公が秀吉公の命令で米沢から岩出山に移ることになったとき、岩出山の城を築いたのが徳川家康公です。家康公が葛西大崎一揆の視察を終えた帰り、この場所で休憩されたという記録から、幕府へはそのことを選定理由に伝えて、許可が下りました。
それ以前の国分氏の時代にあった天神社は、一旦境内の東側に社を遷し、後に躑躅ヶ岡へと遷されました。
この場所を玉手崎といいますが、仙台城からは正確な北東の方角に位置します。
仙台東照宮建設当初、政宗公はすでに亡くなっており、二代藩主忠宗公が1年の間に制作し提出しました。まだ仙台東照宮は無く、六芒星を形作る六地点は完成していませんでした。
提出した絵図(仙台市博物館所蔵)には、六芒星を描くためになくてはならない主要道路をわざとずらしたり、微妙に曲げて描くなどの小細工が見て取れます。これらは、六芒星の結界と鬼門計画を幕府に知られないようにするためではなかったかと思われます。
また、仙台藩が正式に城の鬼門として公表していたのは、定禅寺を筆頭にした寺社群です(現在の県庁と勾当台公園から本町にかけての一角)。ここだけ町割りに逆らって斜めになっていますが、これは本丸に向けているためです。こちらも仙台市博物館所蔵の絵図で確認できます。
1636 政宗公死去
1644 幕府より城下絵図提出の要請
1645 絵図制作
1646 城下絵図完成
1649 仙台東照宮建設許可申請、着工
1651 徳川家光公死去
1654 仙台東照宮完成
1658 二代藩主忠宗公死去
1660 三代藩主綱宗公隠居を命じられる
1661(寛文元年)五郎八姫死去
1667 榴岡天満宮(天神社移転)完成
1671 原田甲斐死去(伊達騒動)
北東から鬼がやってくるのを防ぐために、二人の神様を門番に置いて都を守る、という中国から入ってきた考え方です。日本では忌むべき方角とされていますが、中国では艮(うしとら)は物事が生じ変化する門、新風が通る場所であり、変化、交代、改革などの意味合いもあるようです。
仙台東照宮の建設は、仙台藩総力を挙げての大事業であり、伊達文化の粋(すい)を結集したものであったことから、家康公への敬意を表するとともに、政宗公は最期まで天下取りの野望を持っていたのではないかと想像できます。
*鬼は頭に角、虎皮のパンツというスタイルですが、「うし」と「とら」の接する60度の部分が北東の「鬼門」であるところからきています。
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