四神

〜Four gods〜

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伊達家の永遠の繁栄を願うために、政宗公はさらにもうひとつの呪術を施しました。

それが四神です。守られるべき中心はやはり仙台城本丸です。

東西南北の四方位には、方位を守護する禽獣(きんじゅう)の神が宿ると信じられていました。

北は「玄武-げんぶ」-亀に蛇が絡みついた神
東は「青竜-せいりゅう」-青い竜
南は「朱雀-すざく」-赤い鳥(鳳凰)
西は「白虎-びゃっこ」-白い虎

戦国時代は五行思想からそれぞれ色も配されていました。中央は黄色となります。(相撲ではこれを花房(黒・白・赤・青)と土俵(黄)であらわす)

会津藩では年齢別に玄武隊(50歳以上)、青竜隊(36~49歳)、朱雀隊(18~35歳)、白虎隊(17歳以下)というように四神の名前を部隊名としました。

風水で自然環境エネルギーの作用を大地の形状で見た場合、北の玄武は高い山、東の青竜は川の流れ、南の朱雀は沢畔、西の白虎に大道、この4つが揃うと「四神相応の地」と称して自然エネルギーの充満する大吉相として尊ぶのです。

四方位に禽獣の神様がいることで、その中心はあらゆる役害から守られ、永遠の繁栄を招くと考えられてきました。

~政宗公は天空の星を地上に降ろした~

仙台では、大地形状だけではなく、別な手段をもって城下に四神を配しました。

天空の星宿図に習って角度を合わせたことによって、四神であることを隠した、つまり‘隠す目的’もあって中国の星宿図を採用したのです。

中国では星座の座を「宿」といい、天空の主な28宿を7宿づつ4つに区切り、四神を配しました。(星宿図では東西が逆)
星宿上では実際にある星に名前をつけて四神の各神様にしたため、大きさがまちまちになり、全天を円として見た場合に角度が一定にならずそれぞれの角度ができてしまったということです。

中央には「天皇大帝」の星がありますが、家康公が天帝となるべく日光東照宮に祭られたその星のことです。現在の「天帝」は、こぐま座の尻尾の先端にある星が北極星ですが、28宿が決められた当時は別の星でした。それは地球の地軸が少し傾きを持ち、26000年周期で歳差運動をしているため時代によって地軸の真北にあたる星が変わるためです。



六芒星材料2



星宿図中央にある紫微宮(しびきゅう)の天体図を、中国漢代には長安の都に描き、日本の平安京では都の内裏に紫しん殿として模しています。
星宿図の四神に振り分けられた角度を方位ごとに見ると、小さい順に東75度・西80度・北98度・南112度となります。

これらは、地上に配した四神の角度と一致するのです。
仙台城を「紫微宮」(中心)と見立て、天体の四神を地上に降ろしたわけです。

これはかなり高度な知識と方法によるもので、その事を知っていた伊達家の誰かが、四神を隠す目的で、あえて地上ではなく天空の四神を施したものと思われます。

亀という字が含まれ玄武となります。定禅寺通りを西方向へまっすぐ延長上にあります。四代藩主綱村公の時に建てられました。伊達家初代朝宗公からの氏神様で、松尾芭蕉と曾良が仙台に来たときに最初に立ち寄っていることから、重要な神社であったことがわかります。

「(西暦1681年) ・第二十世綱村公(伊達藩四代藩主・肯山公と称す)、七月、社を城坤川内の地に移し大いに土木を起こし宮地を造営する」とあります。

創建時は社殿まで365段の石段を有する高さがありましたが、驚くべきことにここは土盛りした人工の山で、形は亀になぞらえて造られたといいます。

亀の尻尾の一部が、鳥居を潜って道路の下に埋もれているという痕跡があるそうです。

しかし現在の宮司さんによる別の見解があります。詳細はブログにて。

亀岡八幡宮HP

西の白虎は、寺や神社ではありませんでした。城の西にあるきれいな三角形のお山、太白山(たいはくさん)です。

その山は昔「生出森-おいでのもり」と呼ばれ、ある日突然現れたという言い伝えがあります。海からも見えることから漁師たちからランドマークとして崇められてきました。

太白という名は、金星の別名「太白星」からとられ西の象徴でもあります。五行に直すと西の方角は「金」です。

中国の古書「淮南子(えなんじ)」には「其神為太白・其獣白虎」とあり、太白と白虎の関係が明記されています。

太白山HP

赤い鳥、鳳凰でもあり、子午の呪術でいうと南は’火’ですから火の鳥とも言えます。

政宗の不死、再生を願って子午の呪術を施した場所のひとつです。

政宗自ら、自身が死んだあとはここ経ヶ峯に埋葬するよう遺言した場所とされます。

瑞鳳殿HP

青竜は、仙台市内にはありませんでした。太白山と仙台城を結んだ線の東の彼方、松島にあったのです。瑞巌寺の正式名称に「青龍」が含まれていました。

四神配置は中国の星宿図という高度な天文知識がなければできないことです。

四神の本旨から逸脱しないで悟られずにずらすことができたのは、驚異的な頭脳がそこにあったということです。

京都の大将軍八神社(だいしょうぐんはちじんじゃ)に中国から伝わったという天文図の拓本があります。

それによって学ぶ事ができた人物は、政宗公の師匠である虎哉宗乙しかいません。

彼は京都で修行していました。四神の青竜である松島瑞巌寺は虎哉和尚による再建です。

そこには「松島方丈記」という虎哉和尚直筆の額が残っています。

松島瑞巌寺HP

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