片倉小十郎景綱(かげつな)、伊達成実(しげざね)とともに「伊達の三傑」と称される茂庭綱元(もにわつなもと)。
伊達政宗公の右腕として伊達家の内政を支え、政宗公の死後その冥福を祈り続け、政宗公と同月日(5/24)の命日にこの世を去った。
享年92歳。
お墓は宮城県北部の栗駒町(くりこまちょう) だが、松山町の石雲寺(せきうんじ)には茂庭家霊屋があり、年に2回(1月と8月)ご開帳される。
2010年1月16日、冬の御開帳の日に、突然“いなべの親方”に連れられて、松山町へと向かった。
“つなもとさん”がダレなのかも知らない歴史音痴の私が、なぜここへ足を運ぶことになったかというと、、、
話せばすごく長い、、ので割愛します。
とにかく、何の前触れも無く「撮りなさい 書きなさい」と白羽の矢を打たれ、なんのことやらではあったが、
私はこの日を境に「星の街仙台」へと導かれていくのであった。
2 Comments
開設おめでとうございます。バスツアーに参加したものです。
記憶が確かならば、明治維新に仙台藩は仙台城を明け渡して、藩主は藩知事となります。藩知事は伊達宗敦(宇和島伊達家から仙台に養子に来た方、伊達家当主は14代宗基公)だったと思います。廃藩置県で藩はなくなり、仙台県となり、県庁が藩校養賢堂におかれ、のちに宮城県となります。このとき、仙台藩の公文書、文書は宮城県に移管されたわけで、仙台藩の資料は宮城県の管理下におかれますね。そのときに仙台藩の上級武士の多くが宮城県に奉職します。県庁職員、学校の先生になったわけです。中級、下級武士はというと仙台市に入ります。ということで、伊達家、仙台藩の資料が宮城県図書館に多くあるのはこのためです。県と仙台市の上下関係は仙台藩からの上下関係がおなじですね。
六芒星については、仙台市関係者としては「ありえない」というと思いますが、県の古い関係者は「ありうるかもしれないですね」というかもしれません。
茂庭家についておもうのですが、綱元公の父は甲州軍学をまなぶために武田信玄のもとにいっています。そのときに川中島の戦いを武田軍にいてみたということです。武田には真田幸隆(幸村の祖父)のいましたから、そのころから真田と伊達は互いに名前は知っていたはずですよ。片倉小十郎を政宗公の守り役に推挙したのが「遠藤基信」とされています。彼は修験者の子で伊達家の命で武田、北条、徳川、織田と手紙のやり取りをしていた人物です。茂庭綱元公が陰陽師ならば、遠藤基信も陰陽師かもしれませんね。
なとりのひとさん、いつもありがとうございます。
宮城県と仙台市の関係・・・実は今回サイトを立ち上げるに当たってそれを身に染みて感じる経験をしました。
また遠藤基信が修験者の子だったことなど貴重な情報ですね。大変勉強になります。
なとりのひとさんがツアーに参加してくださったこと稲辺氏に伝えましたよ。
毎日少しづつ更新していきますので、またよろしくお願いします!