鉄砲のつるべ討ちをした片平の道路は軍事道路です。
いざ出陣の時には、城下内を通らずに五橋方面へと近道で抜けられるようになっています。
奥州街道を城下に入ってくる道筋は、長町から広瀬川を渡って河原町に入り、北上して荒町で西に進み五橋を抜けてそれから北上し、染師町、北目町と進んで柳町へとくねくね曲って入ります。
その地点から西にお城を見上げながら進み、そして城下のメインストリートの南町に北上します。
そこまで進むまでに、鉤方(かぎかた)や直角に曲るところがあります。
当時は「枡形(ますがた)」と言って、敵が攻めてくるときに身を隠して待ち伏せできるようにしていたのです。
今も南材木町と穀町の間にみごとな枡形が残っています。
南町の先には 札の辻(現 芭蕉の辻)の十字路に差し掛かります。
ここが城下の中心で、西に行けば大手門、東に行けばさまざまな問屋のある町屋を抜け足軽屋敷のある道路へと進みます。
鉄砲のつるべ討ちにも参加した名懸組の住む名懸丁(現名掛丁)があり、その先が鉄砲町で、鉄砲隊が住んでいるところにつながります。
札の辻(現芭蕉の辻)の北には国分町があり、その先二日町と続きます。
国分町は、政宗の家臣だった国分氏が、町人となって住んでいたところですが、札の辻を中心としたところに商店が配置されているので、城下に入ってきた人たちは必ずそこを通ります。
推測ですが、国分氏の役割は偵察だったと思われます。
風呂敷包みを背負って商人の格好で城下を出入りすれば、他国へ商いという形で情報収集できます。つまりスパイです。
ちなみに、「丁」は「ちょう」と読み、「町」は「まち」と読みます。
「丁」と付く場所には武士が住み、「町」と付く場所には商人や職人が住んでいました。
字を見ればひと目でそれがわかるようにしていたのです。
現在の国分町は「こくぶんちょう」とよみ東北一の歓楽街として有名な町ですが、当時は「こくぶんまち」で町人の住むところでした。
そして、札の辻を基準として南北方向を「横」、東西方向を「縦」として町割を行いました。
この南北方向は現在「晩翠通り」となっていますが、以前は「細横丁」とよんでいました。
「細」は字のごとく細い路地を表し、「横」は南北に伸びた道路であることを表し、「丁」は武士の住むところですので「細横丁」という地名だけで
「南北に伸びた細い路地のある武士の住むところ」と言う情報が得られるのです。
国分町を北上して二日町に入る手前に東西道路の「定禅寺通り」の交差点に差し掛かります。
現在スクランブル交差点ですが、ここが六芒星のど真ん中になります。
六芒星を隠したと思われる幕府提出の最初の絵図では、ここは交差していません。
そこから東へ向かうと定禅寺にたどり着きます。今の勾当台公園と県庁のところです。
定禅寺(じょうぜんじ)という寺を筆頭に寺社が配置されていました。
定禅寺通りは現在もありますが、「定禅寺」がどこにあったかを知る人は地元でも少ないと思います。
「**通り」とあるのは「目的地までの案内道路」と言う意味です。
今も残る南町通りは東西方向ですが南町は南北に正対しています。
現在は「横丁」も「**通り」も当時とはまったく関係なく名づけられていますので、本当の意味を成してはいません。
定禅寺はそこから東側に神社やお寺などが立ち並ぶ寺社群を成していますが、それらは仙台城本丸に向けて斜めに配置(鬼門封じの方角)されています。
ここは藩が正式に城の鬼門として公表していた場所になります。
(星の街仙台P9 仙台城下絵図仙台博物館所蔵地図参照)
そのためそれに沿った北側の道路はその形から「長刀(なぎなた)丁」と呼ばれるようになりました。
札の辻を基準として東側へと東一番町、東二番町と通りに名前をつけてゆきました。
現在の広瀬通を西公園から東に進むと、東二番町の交差点から急に道路の角度が変化します。
それが当時の鬼門の傾きの名残りなのです。
当時の寺社群は、そのすぐ北隣の本町にありましたから。
現代の仙台の街は、高層ビルが林立する東北一の大都会と変貌しましたが、歴史の隅々をこれでもかとつついていけば、400年前の痕跡がまだまだ見つかるのかもしれません。
このように、仙台は城下の中心である札の辻(現 芭蕉の辻)を基準として町割されていましたが、北一番丁は定禅寺の北側から名づけられています。
まるで六芒星の中心である定禅寺通りを基準としたかのようです。
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