茂庭綱元の父良直の先妻には、なかなか男子が生まれなかった。そこで側室を持たされ生まれたのが綱元。
綱元が生まれると先妻は離縁され、米沢八幡宮の片倉家に再嫁した。
そこで生まれたのが小十郎景綱。
景綱と綱元は異父兄弟として政宗公を支える重臣となります。
そして景綱の姉が、政宗公の乳母喜多です。
小十郎二代目重長は、真田幸村の子供4人をあづかることになります。
真田公は、敵方ながら小十郎の戦いぶりに関心を持っていました。
大阪の役で豊臣方についた真田公は負け戦になると覚悟を決めたとき、自分の幼子4人を小十郎に託しました。
4人は片倉の姓を名乗り白石城で育てられますが、うち女子ひとりが幼くして亡くなり、女子二人、男子一人が残りました。
長女が14~15歳になって小十郎の後妻に入るのですが、それは早くに亡くなった小十郎の奥さんが生前「自分が死んだら(自分が育てた)真田の長女を後妻に入れるよう」遺言していたからです。
妹のほうは、初代小十郎景綱の姉・喜多の跡継ぎとなります。政宗公にとって大切な、乳母という仕事を真田公の娘がやることになるのです。
そして男子は、片倉を名乗って家臣になり終生伊達家に仕えました。
そこからおよそ100年ほどで片倉から真田姓へ変わるわけですが、真田公の長男大助(大阪の役で真田公ともども討ち死に)の一番下の子もまた、片倉家に預けられ、後々真田の姓を復活させたというわけです。
歴史上では、幸村公の代で子孫は残っていないことになっているようですが、どっこい現在の仙台にある’真田家’につながっているのです。
白石城に連れてこられた男の子は、実は京都で死んだことになっていました。
京都の河原の石合戦で石が当たって亡くなったのは、身代わりとなった別人の子供。
真田家の血はそうして現代まで生き続けてきたのでしょう。
*画像の絵は、真田公の幼子4人を仙台につれてきた家臣の子孫が、400年の時を超えて感謝の意を表し、政宗公の騎馬姿を描いて青葉神社に数年前に奉納されたものです。(片倉宮司といなべの清明)
2 Comments
こんばんは。
戊辰戦争のときの話です。仙台藩は、旧幕府に味方して官軍と戦います。そのときに仙台藩兵と官軍兵の間に起こったことです。
夜間に官軍のほうから「仙台や~い、こっちにこい」、「はやくこっちにこ~い、仙台」と仙台藩兵に声がかかったそうです。
長いこと声は、謎とされましたが、近年に信州松代藩兵がかけたものとわかったそうです。
信州松代藩は、真田幸村公の兄の子孫で、時の藩主であった真田幸民公は、宇和島伊達家の伊達宗城公の長男だったそうです。宇和島伊達家から真田家へ養子に入った方です。仙台伊達家に養子に入った宗敦公は、幸民公の弟にあたります。
兄から弟への呼びかけだったそうです。仙台藩が官軍に降伏するときに仲介に入ったのが宇和島伊達家と肥後熊本の細川家だったそうです。細川家は仙台に再三にわたり、明治政府に従うように諫言されていたとか。
松代真田家ですが、幸民公の子孫がいまも続き、政宗公の血も伝えています。かしこ。
真田家と伊達家の脈々と続く縁を知ると、「真田丸」を見ていてさらに面白くなりました。
細川家とのつながりもまたここで出てくるんですね。奥が深いです。
またいろいろ教えてください。