六芒星の仙台東照宮のところにも書きましたが、二代藩主忠宗公が幕府に提出した絵図は、開府から40数年後の仙台城下を伝える資料です。
仙台市博物館所蔵のため詳しく掲載することはできませんが、「仙台城下絵図の魅力」という本で確認できます。
これは現存する仙台城下絵図の中で最古のものであり、そこにうそを描かねばならなかった理由は、呪術(六芒星の結界)を見破られないようにするためです。
定禅寺通りと国分町通り(奥州街道)の交差するところ(六芒星の中心)が、わざとずらして描かれています。
よく見ると、他にも主要道路が微妙に曲げていたり、不自然さが見て取れます。
もしも絵図に間違いがあったことを幕府から指摘されたら、絵図を作った人とその責任者が制裁を受けることになります。
現代であればお叱りか減給もので済みますが、当時は 切腹です。
何かを隠すために藩ぐるみで仕上げたとなれば、仙台藩のお取りつぶしは間違いありません。
その時は「武力で対戦しよう、戦争をするぞ」くらいの覚悟があって、事実とは異なる絵図を提出したのです。
家康公の分霊を祭るのは「徳川幕府に忠誠を誓っていますよ」というパフォーマンスです。
「将軍様は神様です。私たちを守ってください」という願いを見せて分霊したのです。
明治の始まる時代まで、天皇という存在を知っていた庶民はごくわずかだったと思います。
農民にとっては庄屋様が村一番の偉い人で、時々見回ってくるお代官様は怖い役人様でした。
そしてお殿様と崇めていたのは、その領地の城主でした。
その城主を束ねる徳川幕府の役人ですら雲上人で、将軍様にいたっては一般的な生活では霞的に考えることもはばかる存在です。
ですから庄屋様クラスで、将軍様はすごい存在だと認識していた程度でしょう。
分霊を許されるというのは、伊達家が将軍様と対等くらいの存在だと認められていたからできたことで、
伊達政宗は、徳川方が一目を置く存在だったということです。
徳川家康が亡くなったとき、次の将軍であった息子の秀忠は「伊達家が反乱を起こす」というデマに惑わされて、出陣の準備をしました。
それを政宗は、笑って否定して収まったのです。
徳川幕府は、伊達家が攻めてくるのではないだろうかと常に疑心暗鬼にかかっていました。
それが少し和らいだのは、三代将軍の家光の存在でした。
家光は子供のころから政宗公に可愛がられ「仙台のジィ」と呼んでなついていました。
あるとき「徳川幕府に刃向かうものがあったらどうする」という話の中で、政宗が「わしが、先陣を切ってお守りもうそう」といって家光を安心させたというエピソードが残されています。
しかし、その心の奥は別物でした。
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