前記事の、小細工絵図というのは、1645~1646年(正保2~3)に描かれましたが、徳川幕府から「城と城下を描いた絵図を提出しなさい」という宿題が出されたのは、その前年でした。
政宗公はすでに亡くなっていて、息子の忠宗が1年の間にアセって調べて測って描かせて、提出したと思われます。
玉手崎(仙台東照宮の場所)には、もともと国分氏以前から天神社がありましたが、まるで「城下とは関係ないね」という感じでポツンと描かれています。
忠宗公は絵図を提出し、仙台東照宮を建てる許可をお願いしに、江戸へ向かいました。
「このたび上様に御目どおりを願いましたのは、神君家康公を我が城下仙台の地に守護神としてお祭りいたしたく、お願いに参上いたしました。」
忠宗は江戸の徳川家三代将軍の家光に深々と頭を下げた。
「おおそうか、ジィを守護神として祭りたいと申すのか」
「はい、神君家康公にあらせられましては、亡き父政宗が岩出山へ移封のとき岩出山の城の縄張りをおん自らなされ、大変にお世話になっておりました。その際、今の仙台の地の玉手崎と申すところにて休息を成されたと伝えられております。そこは城下を一望にできる場所でございます。そこへ神君家康公のわけ御霊(みたま)を勧請(かんじょう:分霊を移すこと)できれば、守護のもと伊達家末永く徳川様に御仕えできるものと思っております」
このとき忠宗公は「鬼門鎮守の神様」として・・・なんて言えるわけがなかったのです。
鬼門の番人は鬼より恐いもっと鬼なわけで、お星様になった全宇宙の神家康様を、仙台を守るための見張り番に立たせると知られたら、その場で斬首でしょう。
それどころか仙台藩は終わりです。
「仙台のジィが、我が爺に城を造ってもらった事があるのか・・・」
家光は政宗公に大変可愛がられており、「仙台のジイ」といってとてもなついていました。
ときおり江戸にあった仙台屋敷に招かれ、政宗公みずから腕をふるった料理を食べたこともあったのです。
政宗公は当時の武将としては料理が趣味という異才を放っていました。
仙台味噌というブランドも確立させ、戦に持参する食料としてはもちろんですが、江戸城下の庶民の間にもその美味しさと品質の良さでもって大ブレィクさせていました。
政宗公は、当時のグルメ武将としても名を馳せていたのです。
家光は二つ返事で許可を与えました。1649年(慶安2)5月(絵図を提出した3年後)のことでした。
忠宗は同年8月には建設を開始しました。
またあるエピソードで、政宗公が幼い忠宗をつれて徳川家康の御前に連れて行ったときのことです。
子供ながらにきちんとした挨拶をし、そのあとにご馳走が出たときのこと。
それには塩を振って食べたほうがうまいとわかっていたため、やおら近習(きんじゅう)にむかって「塩をもて」と命令をしたのです。
その子供ながらも威厳のある態度を見て、徳川家康は感嘆したと伝えられています。
忠宗は分霊許可をもらう前年に、玉手崎の天神社に行きそこから見えるところの確認(測量や見通し)をしています。
ただ眺めたわけではなく、つねに軍事的に敵を見張ることを考えて建物や街道の配置を研究していたのです。
その時に龍宝寺と覚性院(かくせいいん)などを確認したと記録にあります。
龍宝寺は、大崎八幡宮の別当だったので、昔は八幡町は龍宝寺門前町という町名でした。
覚性院は、現在は覚性院丁という名前で八幡町のほうに残っていますが、忠宗公が玉手崎から眺めた時には今の東六番丁小学校の場所にありました。
玉手崎に登った忠宗公が、当時の覚性院を見て、東照宮の分霊が江戸から運ばれてきた時にそこへ仮安置しました。
その仮安置する御旅宮(おかりのみや)を建てるために、覚性院を八幡町のほうへ移したのです。
5年かけて建てた仙台東照宮は1654年(承応3)3月に完成しました。
徳川家康の分霊は、上野の寛永寺の東照宮から運ばれてきて一旦御旅宮に安置され、後に仙台東照宮に移されました。
江戸寛永寺の東照宮は、1627年(寛永4)に藤堂高虎(とうどうたかとら)によって日光東照宮から分霊して移されていたのです。
玉手崎にあった天神社は、東照宮の敷地内の東側に移され、後に榴ヶ岡のほうに移されました。
榴岡天満宮の名前は昭和30年代に付けられたもので、それまでは天神社と呼んでいました。
徳川家光は、仙台東照宮が完成する三年前に他界しており、そのとき13歳の家綱が徳川家四代将軍となっていました。
*仙台東照宮表参道の花崗岩造りの石鳥居(国・重要文化財)は、忠宗公の奉納によるものです。
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