歴史の記録によれば、茂庭家は熱心な仏教徒でした。
仙台藩でキリシタン弾圧の指揮をとらせるのに適し、茂庭家の人間ならば幕府に対して信用させることができたのではないか。
仙台城下を流れる広瀬川にかかる大橋は、仙台城大手門と城下町を結ぶために架けられました。
その下で、カルワリオ神父ら9人は、極寒の中水責めにより処刑されました。
人間が、これほどまでに残虐になれるものなのか、文字にするのもはばかるほどにキリシタンへの拷問は苛烈を極めた。
それだけのことをやらなければ、幕府の徹底したキリシタン追及からのがれることはできなかったのかもしれません。
-少数のキリシタンを殺害することで多数のキリシタンを守ることができれば 死んでゆく人たちは殉教者なのです-
伊達家には「黒はばき組」という忍者部隊がありました。
商人や山伏に変装した黒はばき組は諸国へ送り込まれ、情報収集や暗殺などの密命を遂行し政宗の「影の部隊」として活躍しました。
人取橋で綱元の父を殺した窪田十郎が後に綱元の家来になるのですが、窪田の息子が「給料が安くて生活できない」と不満を漏らし、
ついには藩を逃げ出してしまいました。
はじめ南部藩のほうに逃げたようですが、岩城のほうで見つかり綱元の命令で黒はばきが動いて刺殺されました。
城下建設の際には「小人事件」というのがありました。(末端の階級の者を「こびと」と言った)
建設途中の大手門の近くに綱元の屋敷があったのですが、そこで作業をしていた小人と監視している役人とがケンカになり、
まわりの小人たち全員が加わってきました。
その騒ぎを聞きつけて屋敷から出てきた綱元が、「小人たちを切り殺せ」と命令しました。
城下からは鉄砲を持って小人たちを攻撃する者も現れました。
小人たちは愛宕神社の崖下にあった覚範寺に逃げ込みましたが、綱元や他の侍たちに取り囲まれてしまいました。
窮地に追い込まれた小人たちは寺に火をつけ、全員死にました。
覚範寺は政宗公の父輝宗公の菩提寺でしたから、その菩提寺を焼いてしまった責任を綱元はとらなければなりません。
その時政宗公は京都に居りましたので、綱元は切腹を覚悟でその報告のために京へと向かいました。
「おお、つなもと何かあったか」
「はい、例の件は片付きましたが、覚範寺を焼いてしまいました・・・・ここで責任を取らさせていただきとうございます」
綱元は腰の脇差を抜くと、腹に突き刺そうとしました。
「まて」と政宗公が言うのと同時に、側近の武士が刀を取り上げました。
「まあまて、つなもと。もともと、あの寺は北山に移す計画なのだから、それが早まっただけよ。それよりも、城の秘密を知る者どもを見事に消し去ったおぬしの手腕はみごとであった。戻って引き続き城を建てよ。おれは楽しみにしているからな」
ということで、綱元は腹を切らずにすんだのです。
「小人事件」は、城の抜け穴などを造る作業に当たった者たちを口封じのために抹殺する芝居でした。
けんかのきっかけも、それに加わるようにけしかけたのも、密かに紛れ込んでいた黒はばきの者の仕業だったのでしょう。
綱元のシナリオどおりに解決したのです。
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