サイト内の青葉城本丸のところに書きました「つるべ打ち」の続きですが、
片平の時は広瀬川の川向こうの土手に向かって、長町の時には大年寺山に向かって撃ったとあります。
記録には、片平の時は、慶長14年7月24日です。
この二回のつるべ打ちは表向き鉄砲組みの演習だと思われますが、もうひとつは、政宗公が密かに企画した干支が関係する内々のイベント(陰陽道祭祀)とも考えられるのです。
*「星の街仙台」お持ちの方はP15を参照
六芒星を形作る二つの三角形ですが、易経では、万物の「誕生」「盛ん」「死」の三種の変転 生・旺・墓 とした「三合の理-さんごうのり」というものがあり、それを十二支へ配当して図形が描かれます。
年に十二支を用いていたように、月と日にも用いていました。
片平のつるべ討ちが行われた慶長14年の7月の24日は「卯」の日です。
長町のつるべ討ちの日も「卯」の日でした。
その「卯の日」に囲まれた8月3日は政宗公の誕生日なのです。
慶長14年は「己酉(つちのととり)」年の1609年で、政宗公42歳、綱元60歳でちょうど二人の厄年になります。
政宗公は1567年(永禄10年)「丁卯(ひのとう)」のうさぎです。
この二回行われたつるべ討ちは、”誕生日をうさぎの日で囲んで、’疫病神’を鉄砲で撃ち殺した”ことになります。
南に撃って、次に西に撃ったということはその中間(南西)には江戸があります。
政宗公のことだから
「おれもツナも厄年だな。。。鉄砲でもぶっ放してパァーっといくか」
「フフ、、それは良いお考えで。幕府の目付けも呼んで派手に参りましょう」
てな感じでやったんでしょうか・・・。
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