大崎八幡宮の隣には龍宝寺(りゅうほうじ)というお寺があります。
龍宝寺は、昔大崎八幡宮の別当(お坊さんが神主の仕事もする)でしたので、今の町名の八幡町は当初、龍宝寺門前町といいました。
現代では、神様を祭る神社と仏様を祭るお寺とはまったく別のものと考えられていますが、昔は一緒でした。
仏様が世の中の人々を救うために仮の姿としていろいろな神様となって現れてくる本地垂迹(ほんじすいじゃく)という思想を神仏習合思想(しんぶつしゅうごうしそう)といいます。
この考え方は平安時代(794年~)始まったもので、1074年もの間続いたのです。
しかし、明治(1868年)になって天皇様が日本の代表であると決めたときから、神社とお寺は別物になりました。
天皇は神様的存在だけど仏ではないから、神社とお寺が一緒ではいけないわけで、神社とお寺が分かれてからわずか150年ほどしか経っていないということです。
大崎八幡宮には、建設当初奥の院に豊臣秀吉が祭られていました。
大崎という地名は今も宮城県に残っていますが、もともとは大崎氏(奥州探題-おうしゅうたんだいという、現在の東北地方太平洋側地域を治めていた役職)が住んでいました。
大崎氏は奥州の名門として高いプライドを持っていたので、秀吉が小田原城を攻める時に参戦するようにと声をかけたのですがキッパリ断りました。
そのため秀吉の怒りを買い領地没収となったのですが、このとき、大崎氏と並んでそれより古い時代から奥州総奉行としてこの地を治めていた葛西氏も、同じく小田原攻めに参戦しなかったのでともに領地没収となりました。
それらの領地をまとめるために、秀吉は木村吉清(きむらよしきよ)を派遣したのですが、うまくいかずしまいには攻められて佐沼城に逃げ込み、そこから動けなくなってしまいました。
その木村氏たちを助け大崎葛西の領地を平定(へいてい)、つまり乱を収めるために伊達政宗に出陣の命令が下りました。
このタイミングでは、伊達家はまだ米沢にありました。
歴史的にはこのような説明になりますが、現代に置き換えてみるとムチャクチャな話です。
奥州に住む大崎君と葛西君の家は隣どうしでした。
一つ山を越した小田原に北条君ちがありました。
そのまた山向こうに、暴れん坊の秀吉君がいました。
ある日秀吉君が「北条君、小田原の家をおれにクレよ」といって、近場の子分を集めて北条君ちを取り囲みました。
秀吉君は、遠く離れた奥州の大崎君と葛西君にも声をかけ
「こっちへ来て一緒に北条をいじめようゼ」と誘ってきたのです。
でもふたりは「俺たち関係ねーし」と参加しませんでした。
中には政宗君のように、家来の小十郎に「参加しないとこっちがいじめられっから」
と説得され、ぎりぎりのタイミングで仕方なく参加した人もいました。
大崎君と葛西君は、昔からの立派な武士の家柄だったので、
「秀吉なんてこわくねーもん」と余裕こいていたのです。
ところが、小田原の北条君ちがとうとう秀吉に取られてしまい、大崎君と葛西君ちに、秀吉の命令で家来の木村君が殴りこみにやってきたのです。
「ひでよし様の命令にそむいたオマエたち!さっさと家を出て行けよ」
「ナニかだってんだ!ここはオラだぢの土地だべ、おまえが出ていけ!」
代々続いた名門の武士たちにとって、急に代官になった木村君など一喝してしまいました。
木村君はビビッて佐沼のお城に逃げ込み鍵を掛けて立てこもってしまいました。
それを聞いた秀吉は、言うことをきかないこの二人にキレて、今度は政宗君や蒲生君にふたりの家を取ってこいと命令しました。
そうしてとうとう大崎君と葛西君も泣く泣く家を追い出されるはめになったのです。
二人の追い出しに成功した秀吉は、「まさむね君よくやったね」とご褒美に大崎君と葛西君の家を政宗君にあげることにしました。
しかし、まだ秀吉を恨んでる人たちがいっぱいいるわけですから、何時だれが襲ってくるかわからないとこをもらってもオレ困る、と政宗は思ったのですが
「それあげる代わりに、政宗君の米沢とか会津とかの土地は僕がもらってあげるから」と言われ、
理不尽ながら逆らうことが許されなかった政宗は言いなりになるしかありませんでした。
ショックで混乱する政宗に追い討ちを掛けるように秀吉が言いました。
「あ、そういえば君の可愛い奥さん、なんて言ったっけエ~ト、、、」
「メゴにございます、、、」
「そうそう、そのメゴちゃんを京の都の僕の屋敷に連れてくるように♪」
納得いかないだらけの政宗は、愛姫まで人質にとられ、生まれ故郷の米沢(山形)を離れて岩出山(宮城)に移ることになったのでした。
つづく
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