政宗公が大崎八幡宮の奥の院に豊臣秀吉を祭ったことを裏付ける史料は、茂庭家記録という中に記載されています。
茂庭家は代々奉行職を務めた家柄で、宮城県北部の松山町に屋形がありました。
そこは、茂庭家13代の良元(よしもと)が初代の城主となりました。
茂庭家が伊達家の家臣となったのは、源頼朝が奥州征伐した際に(おうしゅうせいばつ:1189年現岩手県の平泉を拠点としていた藤原氏を攻めた事
件)手柄を立てたご褒美に、伊達家の初代朝宗(ともむね)が現福島県の伊達地方を領地として与えたころのことです。
伊達家はもと中村を姓としていましたが、源頼朝が伊達(だて)の土地を与えたところから中村から伊達に変えたのです。
現仙台の国分町(こくぶんちょう)で知られる国分(こくぶん)の名前も、このころに関係しています。
茂庭家の面々はすごい活躍をしました。
茂庭家12代の綱元(つなもと)が、仙台城下を造ったときの中心人物となります。
この綱元は豊臣秀吉のお気に入りでした。
秀吉が京都や大阪また九州の名護屋にいた時、話し相手や囲碁の相手によく呼ばれていました。
ある日のこと。
「ツナモト君どうしてきみの名前は怖い’鬼’なんだい?」(茂庭家はツナモトの時までは、苗字が鬼庭(おにわ)でした)
「はい、先祖が茂庭村に住みました時、大きな蛇がおりまして、毎年蛇の餌に可愛い娘を差し出していたそうです。それを訊いたご先祖様が、その大蛇を退治しました。村人はご先祖様は鬼より強いと褒めたたえ、それから鬼庭(おにわ)を姓といたしました」
「そうか、じゃぁもともとは茂庭なんだね。鬼がつく名前は良くないから、きょうから茂庭に戻しなさいよ」
ということで、鬼庭家はこのときから茂庭に改名したのです。
またある日のこと。
「ところで、君の先祖は長生きと聞いたが・・・」
「はい、七代よしざね97歳、八代さだもと92歳、九代もりよし95歳、十代もとざね91歳、十一代の父よしなおは高倉の合戦で73歳討ち死にでございます」
「ほほう、、、で、長生きの秘訣は?」
「とくに秘訣などはござりませぬが、しいていえば、米粉をお湯に溶いて毎食後にどんぶり一杯飲むことかと・・・」
「そうか、それじゃ、その湯、それをイワミ湯と名づけ毎日所望しよう」
綱元はこの時、茂庭石見綱元(もにわいわみつなもと)を名乗っていましたので、そのまんなかの石見(いわみ)をとって「イワミ湯」と名づけたのでした。
またある日、秀吉に呼ばれてお城に行きました。
「ツナモト君、今日は僕と碁をしよう。君が負けたら首ちょん切るからね。そのかわり僕が負けたなら あそこにいる女の子のうち一人あげるから♪」
と指を差した先には、16人の美女が並んでおりました。全員が秀吉の側室さんでした。
鼻息が荒くなった綱元は、あっさりと秀吉に勝ってしまいました。
「どれでも好きな子えらべよ。はやくしろよ チッ」
そういわれると綱元は、16人の中でもとくに地味な女の子を選びました。
「ウソ!そんな子でいいの!?」と秀吉がいうと
「はい。うちは田舎で貧乏だから、きれいな着物買ってあげられないし、このこでいいよ」
と言いつつ地味好みの綱元は、天にも昇る心地でした。
秀吉はさっと立ち上がるとクルリ背を向けて、奥の部屋にスタスタと行ってしまいました。
実はこの一番目立たぬ格好をさせていた女の子が、秀吉の一番のお気に入りだったのです。
綱元は、この女性こと高田種子-たねこ(1594年文禄3年、18歳 京都伏見の出身)をとっても大切にしました。
ところが悲しいかな、後に政宗が「ツナモトおまえずるいよ。その子俺によこせヨ」といって横取りしようとしたのです。
しかし綱元は種子を手放しませんでした。
そうこうしているうちに政宗様の嫉妬を買い、城を追い出されてしまうのです。
綱元は種子を連れて、岩出山から種子の実家のある京都伏見へと向かったのでした。
つづく
Leave a reply