政宗様に追い出された綱元は、種子と少しの家来をつれて岩出山(宮城)のお城を出ました。
一行が京都へ向かってとぼとぼと歩いていたとき、突然綱元がひらめきました。
「そうだ!江戸に寄ってまさのぶ君にごあいさつしてゆこう」
「本田正信様どすか?」
「うん、京都にいたときにずいぶんお世話になったし、今度はいつ逢えるかわからないから」
綱元たちはお土産の馬を一頭連れて、家康様のお城に向かいました。
「やあ!よく訪ねてくれたね」
うれしそうに正信がお城から出てきました。
綱元一行の旅の事情を聞くと
「失業したならうちの大将(家康)に口利いてやるよ」と提案してくれました。
しかし綱元は
「武士たるもの二心(にしん)は恥です。伊達家にいたものが徳川様に仕えることはできませぬ」と断りました。
その考えを聞いて正信は感心し
「それならば、武士たるものそんな貧しい格好で歩いてはだめだよ」と言うと
立派な着物類とお金、関八州(かんはっしゅう:箱根から東の八か国-さがみ、むさし、あわ、かずさ、しもうさ、ひたち、こうずけ、しもつけの国をいう)の伝馬(でんま)十頭のご朱印を与えました。(←馬を乗り継いでいける許可証)
それから、綱元の家来が途中で商売して稼げるように、仕事の手配までしてくれ、さらに家康様からは、馬の道具として虎の皮の打ちかけや紫縮緬(むらさきちりめん)の手綱など、武士にふさわしい豪華絢爛なプレゼントをもらいました。
このときにもらった中白鳥毛の槍が現在も松山町に残されています。
そうして綱元一行は、きらびやかないでたちで、京都伏見町の種子の父高田次郎屋敷へと向かったのです。
長くなりましたが、大崎八幡宮の奥の宮に豊臣秀吉を祭っていたという話に戻りますと、
1612年(慶長17年)11月の記録によれば、種子は36歳時に大崎八幡へ金の灯篭(とうろう)ひとつ献納したと書かれています。
『大崎八幡内陣の内に豊國大明神を祭り給うの所あり其の所に国君より献じ給う金灯篭三つと同然に掛け置かる・・・』
これをみると、豊臣秀吉が豊国大明神という神様になって祭られ、国君とは徳川家康のことと思われますが、
このときすでに三つの金灯篭が掛けられていて、その隣に種子の金の灯篭が掛けられた、ということになります。
以上
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