初名は支倉六右衛門長経。洗礼名はドン・フィリッポ・フランシスコ。
お墓は県内に4か所あるとされます。
光明寺(仙台市青葉区)
右手にソテロ神父の墓石もあります。
西光寺(黒川郡大郷町 メモリアルパーク)
死亡年齢84歳記
円福寺(柴田郡川崎町 支倉家菩提寺)
川崎町は常長さんが幼少期過ごした地域。
そして数年前名乗りをあげた大和町の民家の敷地内。
ここはご先祖からの口伝によるものだそうですが、個人宅なので行けてません。
私の感想では、信憑性が高いのは大郷町です。
常長さんは、7年の歳月をかけてヨーロッパから命からがら帰国しましたが、その2年後に52歳で病死したと幕府に報告されています。
でも、どうやらそれは政宗公のいつもの「死んだふり芝居」で、常長さんは大郷にいる親類縁者のもとで、
84歳まで布教活動をしながら、悠々自適な老後を送ったのではないかと思われます。
歴史上ではほとんど語られていませんが、黒川郡―大郷町と富谷町の境界の東成田あたりには
常長さんの実父の領地があって、常長さんは20代の頃そこで生活をしていて、結婚もした、という記録があります。
常長さんは黒川郡の人で、親戚縁者も多く住んでいたようです。
富谷町と大郷町には隠れキリシタンの伝説があり、富谷の西成田石積地区にいたキリシタンの「しいな」と言う人が
常長さんの娘の乳母をしていた、という記録もあります。
「しいな」と言う名前は、常さんが訪問したヨーロッパの史料にも残されているほど
奥州のキリシタンの中では上層部(?)、だったと思われます。
石積地区には、地図を超拡大していくと「十文字」という場所がありますが、たぶんここに教会に見立てたお堂があったと推測します。
富谷には他にも数か所、キリシタン信仰のあった村が存在します。
そして極めつけは、大郷町の東光寺の先々々代ご住職―佐藤宗岳師の研究書(昭和30年代初頭発行)です。
宗岳師は、支倉常長の研究では第一人者と思われます。ご自身の目と耳と足で郷土の歴史を多年に渡り調査研究、
結論を得て発表したその内容は、説得力を持って常長さんが生きていたことを証明するものを提示しています。
(支倉家家臣の子孫の蔵から出てきた古文書の中から常長さん宛ての領収書が見つかっている)
富谷と大郷は、禁教令が出ていたときにも隠れキリシタンたちが安泰に暮らしており、
それはひとえに常長さんが帰国後、仙台藩の庇護を受けて伝道していたからと想像できます。
常長さんは、歴史上では通商交渉に失敗して帰国した悲劇のヒーロー扱いになりましたが、
日本人初の外交官であり、初めて大西洋を渡った冒険家であり、なによりローマ教皇に謁見し洗礼を受けた、
世が世なら英雄なのです。
その功績は明治になってからようやく日の目を見たわけですが、常長さんの7年に及ぶ航海日誌は、
戦前(?)まで保管されていたそうですが、いつのまにやら行方不明になったままです。
だれかが「貸してくれ」と持って行ったところまではわかっているようですが・・・
もしそれが見つかれば、、、、几帳面で実直な常長さんのこと、貴重な情報が分厚く何冊もの書物となって
記録されているはずです。
あぁ読んでみたい。
東光寺の住職だった燈外燈和尚は、後に天麟院の四世になっている。
二世は五郎八姫の隠し子黄河幽清。
2 Comments
大変興味深く拝読させていただきました。
私は最近、伊達統治時代の牡鹿半島近辺の金鉱開発と宣教師やキリシタンの貢献につき関心を持ち始めたものです。
ようこそ。仙台藩の金鉱とキリシタンは、マサムネ・コードのメインテーマです。
定説を覆す史実が次々見つかっていますので、これからもよろしくお願いします。