茂庭家の菩提寺である石雲寺(松山町)と、綱元さん開山の洞泉院(栗駒)に
新刊をお届けに上がりました。
石雲寺ご住職に直接お渡しすることができました。また、城下の六芒星のことはご存じでした。
お霊屋は、年に2回(冬と夏)御開帳されますが、思えば2010年の1月16日(冬の御開帳日)、
私が稲辺の親方に(撮影を頼まれ)ここへ連れてこられ、この日から「星の街仙台」にどっぷりと引きずり込まれたのです。
本の25ページに掲載の綱元像は、このお霊屋にあります。
洞泉院は、栗駒の田園風景の中にありました。
残念ながら、ご住職はご不在でしたのでお手紙とともにポストへ投函してきました。
綱元さんのお墓は、道路を挟んだ向かい側にありました。
綱元さんが自ら彫ったという石像は想像以上に大きく2.5mはあろうか、迫力があります。
お顔は、少し微笑んでいるように見えます。座禅を組み両手を合わせて南を向いています。
石像の後ろには、殉死の禁を破り綱元の後を追った土屋孫右衛門、その横には綱元の墓守をした遊佐道海の墓があります。
綱元さんと道海さんの命日は、政宗公と同じ5月24日です。
*洞泉院については、新刊の24~25ページです。
文字村ということは、隠れキリシタンの伝説があり、綱元さんもキリシタンだった可能性があります。
2 Comments
初めて拝見しました。「綱元君記」に、道海さんが出てきます。
遊佐采女、入道道海で、慶長の初期に茂庭家の家老になったこと、慶安4年の政宗公、綱元君の祥月命日に没したことが記載されています。
また、「伊達世臣家譜」では、遊佐木斎、通称好生という儒学者が居たことがかかれ、先祖を遡ると
二本松の畠山氏に仕え、天文年間に栗原郡三迫に移り、岩ケ崎の豪族富沢氏の5代目左衛門直景家に
寄寓し、軍師として天正年間の戦乱に参加し、秀吉の奥州仕置きで子の遠江は戦死した「美作入道道海」と記載されています。通称好生、遊佐木斎は、道海の六世の孫に当たることが読み取れます。
従って、「綱元君記」「伊達世臣家譜」の二資料を付き合わせると、美作入道道海=遊佐采女、入道道海 と考えています。天正末期の秀吉の時代に、道海は茂庭に仕えたと推察しています。
この辺の情報をお持ちでしょうか。よろしくお願いします。
返信遅れて申し訳ありません。
情報ありがとうございます。道海さんについてはまだ調べが進んでいません。
グランドクロスの栗駒あたりはまだツアーを行っていないので、もし実現できれば、調査に入りたいと思います。
その時には是非また情報提供をお願いいたします。