4年前のちょうど今頃、高野山の宿坊に4泊しました。
真言密教の聖地として秘密のベールに包まれた高野山が、今では外国の方や
若い女性にも人気の観光地として解放されています。
かく言う私も観光客のノリで楽しんだのですが、今思うと(知識無く行ったことが)非常にもったいなかった。
最近ある方から「高野山と仙台藩 大林昭雄氏 著」という本をお借りしました。
高野山の中央に位置する古刹「北室院」(昔は観音院)が、山内での仙台藩の菩提寺であったことを今頃知りました。
-弘法大師空海が高野山を開創した当時、中院を中心に北室・西室・南室を建立したといわれ、北室(現在の北室院)は谷上地区に建立された。
北室院は諸大名の帰依を受けたが、特に仙台伊達家の帰依は深かった-
奥の院は、弘法大師の御廟のあるところですが、ここへ入るには一の橋(大橋)を渡ります。
ここは壇上(胎蔵界)と奥の院(金剛界)を区画する橋です。
その一の橋を渡ってすぐ左手に、伊達家二代忠宗公と三代綱宗公の墓所があり、
左が仙台伊達家、右奥が宇和島伊達家墓所。ちゃんと北室院て書いてるぅ^^;
さらに参道を進んで右側に政宗公の墓所。
つまり伊達家の墓所は2か所に分かれています。
高野山で一番大きな五輪塔は、二代将軍秀忠の北の方(崇源院殿)で、政宗公の墓塔は山内では第四位の大きさだそうです。
どちらもすごい数の墓石が囲んでますが、仙台藩の殉死者は全て五輪塔で、高野山における殉死者の扱いは
極めて丁重なものであったことがわかります。
仙台藩殉死者は高野山でも特異な存在になってるそうで、他の諸大名は2~3名にすぎないのに
伊達政宗公は20名、忠宗公で16名、他大変な数の殉死者を出している。
伊達家歴代、政宗の父までは少ないが、政宗の代になって急増する。
殉死禁止の令が出てもおさまらなかったのである。
仙台藩は「君臣の結びつきが強大だった」とこの本には書いてありますが、もっと奥深いものがありそうです。
仙台藩が高野山と親交が深かったことをうかがわせるもう一つの寺『成就院』
茂庭綱元が後見役となった政宗の五男宗綱が早世すると、その菩提を弔うため入道して了庵と名乗り、三年間にわたって供養を行った。
綱元はこのとき70歳。政宗公が「行くな」と引き止めた記録が残っている。(が、実のところ行かせられたのでは…?)
その3年前までは、真田幸村が父昌幸とともに高野山の入口に当たる九度山に幽閉されていた。
綱元が山を下りて仙台へ戻ったのが1620年。この年、フィリピンに足止めされていた支倉常長と、
忠輝公と離縁させられた五郎八姫が同じく仙台入りしている。
1620年という年は、星の街仙台のキーパーソンの奇妙な一致が見て取れる。
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