政宗公は、禁教令が出た後もキリシタンに対しては寛容で、文献の中でも「切」という字を使わず
「吉利支丹」とあります。
娘の五郎八姫がキリシタンで、また鉱山所有の武将では5本の指に入ると言われた政宗公は
金山の採掘技術をキリシタンからもたらしたのです。
五郎八姫と支倉常長が仙台に戻ってきたのは、同年の1620年(元和げんな6年)。
その3年後の元和9年、大晦日から翌年正月元旦にかけて仙台の大橋のたもとではキリシタンの処刑が行われました。
大村ノ賀兵衛(伊藤次郎衛門百姓)
掃部(かもん)
金七
三九郎
三迫ノあん斎(以上四名は和田主水百姓)
の五名は火あぶりの刑。
高橋佐々衛門
野口二右衛門
若杉太郎衛門
安間孫兵衛
小山正太夫
佐藤今衛門
長崎五郎衛門(デイゴ・デ・カルバリヨ神父)
次兵衛
次右衛門
の9名は、極寒の凍てつく広瀬川へ篭に入れられ、水責めにされて亡くなりました。
信仰の自由と命までも、国家によって奪われた信徒たち。
これらの記録からは一見して、有無を言わさず死刑にされたように思われますが、石母田(いしもた)という仙台藩の奉行が書いた文書には、
’ころび(転宗)をすれば命は助けると言ったのですが、頑なに拒否したためやむを得ず死罪にした’ 事が書いてあります。
それは、他のキリシタンたちの見せしめとして行われ、これ以上の藩内での死者を出したくないと言う思いがあったようです。
長崎五郎衛門=カルバリヨ神父は、後藤寿庵(ごとうじゅあん)のところへ身を隠していたのですが、
寿庵に危害が及ぶ事を心配して山奥の隠れ家に立ち退いたのです。
しかし、雪道に足跡が残り役人にその場所が知られてしまいました。
後藤寿庵はもともと仙台藩の後藤信家の長男でしたが、長崎に行った時にヤソ教徒となったため勘当の身となっていました。
支倉常長は渡海するに当たり、勉学のため渡海経験をもつ田中勝介を尋ねて京都へ行きました。
その時に、田中より海外に詳しい後藤寿庵を紹介されました。
常長は寿庵をつれて仙台へ戻ると政宗公に紹介し、寿庵は1200石を与えられました。
常長は当時600石でしたから その待遇の良さがわかります。
1611年(慶長16年)の事でした。
日本でキリシタン信仰がそれほどまでに広がった理由は、宣教師たちは信仰以外にも土木技術や鉱山の採掘技術など、
日本よりすぐれた技術も持っていたからでした。
東北に初めてキリシタン信仰が入ってきたのも、外国から鉱山技術者を呼んだためでした。
石巻の日和山を居城としていた葛西晴信は、鉄精錬の技術を高めるために備中国(岡山県)から布留大八郎、小八郎兄弟を招きました。
1559年(永禄えいろく2年)のことです。
それによって、以前より十倍する良質な鉄が生産されるようになり、民の生活が楽になり感謝されました。
布留兄弟がキリシタンであったことから、町が繁栄したご利益の象徴として民は競い合って入信し、その数三万人を数えたとあります。
そのために寺が三つつぶれ、憤死した和尚もいたと言う事です。
後藤寿庵も堰を造り「砂漠の如し」と言われていた地域を潤したため、その恩恵をうけた百姓たちは寿庵を慕い、
キリシタンとなっていったのでした。
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