仙台大橋の水責め拷問で亡くなったカルバリヨ神父は、江戸で幕府に密告したものがいたため、囚われたのでした。
1623年(元和9年)の12月7日、政宗公が将軍家光と面会中、神父を取り押さえるよう指示があったため、
政宗公は翌日仙台に使者を出しました。
その手紙には
「昨日七日朝にお茶のために二の丸へ行けたことは幸せな事でした。その時上様(家光)が直接お話になったことは、江戸中にさえ吉利支丹が沢山いるのだから、奥州にもいるであろう。とおっしゃられ、そういう話を聞けば、なるほどと思うところもある。そこで御定めでもあるので伊藤弥兵衛を差し遣わすが、細かな事は伊藤が説明する。」
という内容でした。
「なるほどそうですかぁ、もしかすると奥州にもキリシタンなるものがいるってことでしょうかねぇ、、」と言っているような、すっとぼけた内容の手紙です。
しかし、’御定め’とあるように「上からの命令だぞ」と釘を刺しています。
このとき幕府から名指しされたのが、カルバリヨ神父と後藤寿庵でした。
仙台藩では後藤寿庵のいる福原邑(水沢辺)の屋敷に追っ手をやったのですが、屋敷を囲んでただわいわい騒ぐだけで、何も手出しはしませんでした。
それは政宗公の命令だったからです。
あまりにうるさいので後藤寿庵は屋敷を出て南部領へと立ち去ったのでした。
追っ手の者たちは寿庵が去ってゆくのを見送るだけで、戻ってからの報告では「秋田のほうへ逃げた」としています。
命令によりとりあえずは、捕らえるそぶりを見せていたようです。
だから 大橋の水責めがいかに苦渋の策であったかが伺えます。
本人たちがうそでも「転宗します」と言えば命は助けられたのです。
政宗公の手紙にあるように「キリシタン」を「吉利支丹」と書いていますが、一般的には「切支丹」です。
現代でさえ年賀状に「去年はお世話になりました」はNGで、「昨年」と書かなければなりません。
「去」は「去る」という忌む言葉だからです。
当時であればなおさら文字の表す意味は大きいものです。
「吉利」は寿ぎの文字で、「切」は忌む文字です。
伊達家には「伊達治家記録(だてちけきろく)」というものが残されていて、四代藩主綱村公の時から編纂されました。
その時のキリシタンも「吉利支丹」の文字を当てています。
伊達家にとってキリシタンは忌む存在ではなかったという証拠です。
藩内各地でキリシタン弾圧が起きた事が記録に残っていますが、明治6年禁教取締高札が撤去されたあと、
明治16年5月3日、日本最初のキリスト教団「日本天主公教会」が認可されました。
その時の大司教は、仙台愛子(あやし)出身の土井辰雄という人でした。
隠れキリシタンとして長く続けていなければ大司教になどなれないでしょう。
鎖国のあとも幕府によって、草の根を分けて掃討されたはずの隠れキリシタンたち。。。
これらのことから いかに仙台藩がキリシタンを擁護してきたかが伺えるのです。
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