グランドクロスの東西ライン西側の愛子(あやし)地区には、隠れキリシタンの里だった痕跡がいくつかあります。
普通の住宅街の中に、ポツネンと建ってる小さなお堂。
五郎八姫が政宗公亡き後、茂庭綱元の屋敷を譲り受け住んだ西舘跡の真北に位置します。
20cmほどの鬼子母神像は、右手に幼児、左手にざくろの実を持っている。
この地区では8/15に、「盗人神(ぬすっとがみ)」また「唖神(おっつがみ)-おし」という祭が行われています。
祭りの間中、絶対に口をきいてはならぬ、途中人に見つかってはならぬ、音をたててはならぬという、
まるで自分たちの存在をかき消すかのような信仰なのです。
このお堂へお参りにいく主人に持たせるお膳には、料理と一緒に12膳の箸(わらで作ったものを糸で結ぶ)を添えるそうです。
つまり12人で召し上がれということですね。
キリストの愛した弟子12人へ捧げるためでしょうか。
そしてこの奇祭の行われる8/15はマリア様が昇天した日とされます。
また、すぐ近くには五郎八姫が住人のために建てたという薬師堂があります。
中には「ろうそく食い」と呼ばれる木像が祭られています。
顎部分に十字のマークが刻まれており、それを隠すためにろうをたらして見えなくしたとされます。
洋風な顔立ちはキリストを思わせます。
また愛子には「愛子百軒、ドス(らい病)九十九軒、残る1軒駐在所」という古い諺があります。
当時の城下の生活用水は広瀬川の水でしたが、広瀬川の上流に接するこの場所に伝染病患者を集めて住まわせるとは考えにくい。
愛子の南は秋保(あきゅう)、西は定義(じょうぎ)で、このあたりは平家の落人が隠れ住んだ伝説が残っています。
青葉山の裏手にあるこの一帯は、人が隠れるのには絶好の地理であったのかもしれません。
仙台藩はキリシタンに対しては寛容だった。というよりむしろ、擁護していました。
政宗公は、五郎八姫を家康公の六男忠輝に嫁がせました。しかしふたりは幕府の陰謀で離縁させられます。
幕府がキリシタンを弾圧しなければならなかった理由は、それだけ力のある恐るべし存在だったからでしょう。
当時30万人いたとされる隠れキリシタンを、もしも仙台藩が味方につけることが出来たとしたら。。。
「島原の乱」は、政宗公没後翌年のことです。
*星の街仙台第二弾バスツアーは、12/3と1/21です。東西ラインの愛子地区をメインに探訪します。
Leave a reply