そう断言するのは、黒川郡大郷町の東光寺第九世 故 佐藤宗岳 師です。
郷土の歴史研究家でもあった、支倉常長においては第一人者ではないでしょうか。
長きにわたり貴重な史料を収集した調査研究成果の労作(昭和32年発行)は、50年以上経て大郷町教育委員会が再販し、
私は偶然道の駅で発見し1冊入手しました。が、まもなく完売し再発行は無いとのこと。
運よく私の手元に来た研究書には、驚愕の内容が書かれていました。
画像は大郷町です。右下の「安戸」は支倉家の屋敷跡がある場所で、常長さんは帰国後ここに隠棲したものの
街道沿いのためすぐに東成田字西光寺(隠れ人として目立たぬ山間)に移ったようです。
「十文字」という地名があるところには、教会のようなものがあったと推測されます。
左上の龍華院さんにはマリア観音が祭られています。(ツアーで御開帳いただきます)
東光寺では、十字のマークが刻まれたお位牌を見せていただく予定です。これは松島天麟院(キリシタン五郎八姫の菩提寺)の歴代住職の中のひとりであることが判明しました。
天麟院の4人の住職が、東光寺にもいたことがわかりました。
宗岳師によると、県内に3か所ある常長さんのお墓のうち、大郷の西光寺(メモリアルパーク)が有力であると、説得力を持って語っています。
東成田の支倉家中伊藤家では、常長から伝わったとされる所持品の中に、マリア観音小軸と常長宛ての表具料領収書が見つかっています。
領収書の日付から、常長さんは帰国2年後に死亡していないことは明らかで、「52歳で病死し光明寺(北山)に葬られた」という定説は覆されるのです。
富谷の西成田地区にも常長さんの親族がいた記録があり、350名以上のキリシタンがいたこと(その幹部がしいなという人であった可能性)、
西成田の旧家では、隠れキリシタンを思わせる風習が残っていることなど、、、
黒川郡にキリスト教の隆盛を見たのは、常長さんの布教によるものではないかと充分考えられるのです。
ソテロ神父が政宗公から伝道の許しをもらい仙台藩で布教を開始したのは、1611年(慶長の大津波のとき)で、その2年後には常長さんと一緒にローマに渡航します。
その3年後には禁教令が出ていましたから、東北の伝道は宣教師からではなく信者から始まったといってもいいかもしれません。
そして渡航から7年後、キリスト教の本場でローマ教皇から直々に洗礼を受けたドン・フィリッポ・ファシクラ・常長が生きて戻ってきたわけです。
政宗公は、そんな偉人常長さんをそうやすやすと死なせるわけにはいかなかったでしょう。
だから幕府には死んだことにして、匿ったのです。
常長さんは間違いなく『お宝』を持ち帰っているはずですから。
常長さんが有名になる以前、お墓を掘ったという話もあります。
詳しくは、ツアー当日の昼食前1時間の講座で解説します。
4/22はまだ空席があるようです。お早目にお申し込みください→仙台バスツアーズまで
Leave a reply