仙台藩の犯罪史上、他に例を見ないセンセーショナルな『主人殺しと不義密通を犯した男女の逃亡劇』が、250年以上も唄いつがれている。
【飯田口説-はんだくどき】(事件の詳細については検索すると出てきますので、そちらをご覧ください。研究者がいます)
正面が飯田屋敷跡。
事件の舞台となったのは、石巻の北上町女川地区にある飯田屋敷。
時は宝暦2年(1752年)4月。5代藩主吉村公はこの年の2月に亡くなっている。
お節は、吉村公の御落胤とされ姫教育を受け、同等身分の伊達家一門の飯田能登道親に嫁いだ。
飯田能登守は金山の採掘を生業とし、どうやら隠し金山があったようなのだ。(近くに伊達小次郎-政宗公の実弟-の墓がある)
この場所には現在飯田家家中の末裔が住んでいるそうだ。
当時の石垣が残っている。
写真左手に喜右衛門の住居があった。
喜右衛門は、飯田屋敷のとなりに居を構える家来で、金の採掘と、金の精錬に必要な水車に引く水路の測量や治水に関わっていたという。
喜右衛門には妻子がいたが、主の奥方お節とW不倫の末主君を殺すという前代未聞の大罪を犯し、ふたり逃避行することになる。
まるで幕府の金山奉行「大久保長安」を髣髴とさせる、酒と色におぼれた飯田能登守の生活ぶりだが、ふたりに殺された理由がいまいち腑に落ちない。
一説では、この3人を知る者たちの証言に「(不倫の)うわさなど聞いたことが無い」とか「主人は悪人だがふたりはいい人、優秀な人」というニュアンスが伺われる。
現に、ふたりの最終逃亡先である岩手の小国では、喜右衛門の指示による治水工事で村が潤い感謝されている。
他にも、行く先々でふたりは村人に助けられ逃げ延びている。
お節の父である吉村公が生きていたなら、お咎めはなかったかもしれない。
藩主になって間もない6代宗村も「そんなに一生懸命探さなくてもいいよ」的発言をしている。だが懸賞金をかけられたふたりは、
とうとう執拗なまでの追っ手により捕縛され、あまりに凄惨な最期となった。
「口説」で唄われるエンターテイメント性と、古文書や古老の口伝では、内容に若干のずれがある。
逃亡ルートで立ち寄っているのが産金地帯、隠れキリシタン、、、せっかく南部藩まで逃げ延びたのに、あっさり捕まっている。
この処刑されたふたりはほんとに本人たちなのか。
ふたりの不義密通は、はめられたのではないか。藩の秘密を知ってしまったから(?)
吉村公が亡くなった2か月後の事件というのも、タイミング良すぎ。逃亡するには都合がいい季節。
飯田能登守は”隠密”を抱えていたという情報も。飯田屋敷のとなりに居を構えていた喜右衛門はボディガードだったのでは(?)
この事件、埋蔵金の匂いがプンプンする。
3 Comments
ネットにて見てみると、せつ姫は、薙刀の名手とあり、母の形見の薙刀を夫に振るったとある。
母の形見? 母親は武家の娘ですね。仙台に刑場への道すがら寺に投げたとされる、松の葉を針のかわりにして阿弥陀佛を刺繍した品が仙台の寺に残る。
悲劇の姫であります。
あの日図書館の資料室で見つけた本には、喜右衛門が先に斬りかかってそのあとお節さんが加勢したとありました。
それにしても謎の多い事件です。刺繍は新寺の寺にあり11/3に御開帳されるそうです。
宮城県の栗原市出身で飯田(はんだ)姓の自分は、地元を離れてから女川口説を知りました。幼い頃、曾祖父(高橋家からの婿養子。士族らしい)から、「飯田の家は、伊達の中では良く言われていない」とか、祖母(二階堂家から嫁入り。ここも士族?)からは「伊達の飯田は・・・殺される」なんていう、女川口説きよりもえげつない口伝がある旨聞いた。血筋的に関係があるのかどうか分からないが、気分は良くない。ちなみに、祖父が祖父から聞いたところによると、うちのご先祖は、今の福島県の伊達市にルーツがあるらしい。でも、家紋は伊達氏にやられた葛西氏の三柏(笑)