2代藩主伊達忠宗公と側室 貝姫の子として産まれる。
生母 貝姫は京都の公家の櫛笥家に生まれ、貝姫の実姉は後水尾天皇の女御として後西天皇を産みます。
綱宗公と後西天皇はいとこにあたります。兄たちが早世したり、養子にいき、綱宗公が藩主の座につく。
将軍徳川家綱の一字をもらい、綱宗と名乗り、父の 忠宗公の正室 振姫の養子となり、藩主となる。
しかし、藩内をまとめることができず、伊達騒動が起こる。
幕府から隠居を命じられ、長い余生を趣味に生きた。
綱宗公が藩主になるとき、古内重広は、
「必ず騒動が起こる、伊達兵部がでてくるし、綱宗公はまとめることができない」と遺言して、忠宗公の後を追い、殉死しています。
やがて、綱宗公の子が仙台藩主、宇和島藩主となり、綱宗公の血は仙台、宇和島につながっていきます。
~なとりのひと~
★★★★★★
古内主膳重広公は、眉目秀麗で馬術にも優れ、政宗公の目に留まり2代忠宗公の側近に抜擢されました。
のちに家老まで昇進した、先見の明を持つ逸材でした。
グランドクロスの南北ライン上に位置する岩沼要害一帯は、重広公が城主として古内家が統括した。
お墓は、古内家の菩提寺である根白石の大満寺にあります。(「星の街仙台」35ページ参照)
幽峰
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