伊達政宗公の長男として、生まれて跡継ぎとされながら、分家した伊達秀宗公。
政宗公の正室(愛姫)に男子(忠宗公)が産まれたことで立場があやふやになり、四国宇和島におくられます。
政宗公としては、いずれは秀宗公を滋賀あたり、または関東近くに移してやりたいとは思っていたようです。
宇和島には、政宗公の信頼厚い山家清兵衛をつけ、秀宗公を補佐させます。
しかし、清兵衛のやり方に不満のある家臣もいて、対立します。
政宗公が宇和島に2万石ほど援助したことで、秀宗公周辺の家臣は、親子だからもらい受けたいとしますが、山家清兵衛は、少しずつでも仙台に返すようにと主張します。…
収入が少ない宇和島家臣内で「清兵衛憎し」が募り、清兵衛を煙たがる秀宗公も仕置きを命じます。
7月7日、七夕の雨の夜に武士たちが山家清兵衛の屋敷を襲撃。
蚊除けの蚊帳を吊り寝ていた清兵衛一家は、みな命を落とし、蚊帳ごと一家包まれて、井戸に投げ込まれたといいます。
宇和島の変事を知った政宗公は、激怒して、宇和島の秀宗公と絶交、勘当します。
宇和島では、清兵衛の死に関わった武士たちが発狂、変死していきます。
その後も変死は続き、秀宗公と井伊直政の娘の間に生まれた長男は廃嫡、次男も早死にします。
秀宗公の命にて清兵衛一家をまつる神社が作られ、和霊神社となります。
神社は四国一円にひろがり、坂本龍馬が脱藩するとき祈願したのが和霊さまともされます。
山家清兵衛の一族は、仙台にもいて、仙台一番町に和霊神社をまつり、屋敷を構えていました。
明治になり、山家家が屋敷を割いて商店に貸し出します。これが仙台一番町商店街の始まり。
いまも仙台フォーラスの屋上に和霊神社はあります。
山家清兵衛は「仙台に帰りたい、帰りたい」と言っていて、仙台では七夕に雨降りになるのは清兵衛一家の涙雨、七夕には蚊帳は吊らないとの言い伝えがあります。
~なとりのひと~
3 Comments
台原にある和霊神社も分霊されたものなんでしょうね。
説明板に山家公とあるのに上司であるはずの政宗公と秀宗公は呼び捨てでしたので、びっくり!
すぐ隣りの敷地に山家さんというお宅ありました。きっとご子孫なんでしょう。
ご子孫が建てたんでしょうね。現代に置き換えればとんでもない残虐な一家惨殺事件ですもんね。
いつかお参りに行きたいと思います。
和霊神社の由来に関しては、これまで仙台フォーラス屋上の和霊神社参拝者に配布しておりました冊子「和霊神社の由来」を、山家清兵衛のご子孫の山家守男さん、宇和島の和霊神社、郷土史研究家など多くの方々のご協力を得て2020年春に一新いたしました。
ぜひご覧ください。
冊子「和霊神社の由来 ~一番町ものがたり~」企画・執筆・監修者より