関ヶ原の戦いのとき、徳川家康公が伊達政宗公に与えたという”百万石のお墨付き”。
伊達を味方にするために、家康公が伊達の旧領である伊達、信夫、刈田、置賜を上杉から取り上げ、伊達領にするとの起請文のことであり、それらを合わせると伊達百万石にあたることから、”百万石のお墨付き”と呼ばれる。
関ヶ原の戦いで伊達政宗公は、最上氏支援をおこない、さらに上杉領であった白石城を落とし、刈田郡を占領した。
関ヶ原で大勝した徳川家康公に、お墨付きを実現するよう伊達政宗公は迫ります。
が、同じ徳川に味方した南部より、和賀忠親一揆を伊達が焚き付けたと訴えが起こる。
江戸に呼ばれた和賀忠親は、仙台の国分尼寺で自害することでうやむやになり、お墨付きは実行されない。
伊達家は、白石のある刈田郡のみ得て、伊達、置賜などは上杉領のままになり、怒る政宗公はお墨付きを持って、江戸城に乗り込むことになる。
怒る政宗公の前で、幕府大老である井伊直政の子、井伊直孝が、
「このようなものがあるのは、伊達家のためになりません」と家康公、政宗公の前で火鉢にいれ、焼いてしまった。
驚く政宗公は、おとなしくなり、
「ならば、秀宗に土地をくれ」と言った伝説があります。
井伊直孝の別の言い伝えには、豊臣攻めに反対する家康公の次男、結城秀康を彦根に呼び、毒をもった。
気づいた秀康は、血を吐きながら彦根城の天秤櫓まで逃げ、絶命。
秀康の怒りからか、以来 彦根井伊家の当主は短命であったという伝説があります。
さても、さても、 百万石のお墨付きは、今も仙台に残っています。
Leave a reply