伊達政宗公は徳川家に味方し大坂攻めを行い、武勲をあげた。
政宗公の重臣、片倉小十郎影綱(初代)の子である小十郎重長が大坂方の武士に組み伏せられ、あわや、討ち死となるところ。
そのとき、小十郎に従い、大坂に来た野伏(今でいうフリーター)の兄、弟が大坂方の武士を押さえ、
「 若殿よ、いくらくれるか(正社員にしてくれる?)」
小十郎重長は「百貫文でどうか」というと、
兄弟は「まだまだ(給料ひくいよ)」という。
重長が「百五十貫文はどうか」という。
兄弟は「いやまだ、若、討ち死するか」という。
たまりかねた重長が「えーい、二百五十貫文!」と叫ぶと、
兄弟が「承知、承知(OK!)」と、重長を助けたという。
夏の陣の後、兄弟は小十郎のもとに呼ばれ、召抱えられるときに、片倉家では
「兄弟にひとりずつ二百五十貫文やりまするか」と家来たちがいうと、小十郎重長は、笑いながら、
「ふたりで助けたのだから、ふたりで二百五十貫文じゃ」と言った。
このとき、重長の父、小十郎景綱(初代)は病床にあり、大坂から得意になって帰る重長をわざと白石城に入れなかった。
「片倉は、政宗公のそばにある重臣。大将でもあるのに雑兵に混じり、いくさするとは愚か者のすることじゃ」と、息子に自重させたという。
戦国時代は、生きていくことが大変な時代で、平均寿命は50年もなかった。女性も鎧を着て戦うおんな武者もいたし、子供の武者もいた。
いまのIslāmと同じ感覚で生きていた。そんな時代を終わらせたのが徳川家康公。
追伸: 記事の片倉小十郎重長の話は、亡き紫桃正隆(しとう まさたか)先生の本にありました。版元は宝文堂でした。
先生のご温容を偲びます。
★★★★★★
初代景綱–重長–景長–村長————-17代重信(現青葉神社宮司)
幽峰
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