戦国時代、伊達家に仕えた鬼庭良直。勇猛な武士として知られ、のちに人取橋の戦いで討ち死にします。
先祖は、斎藤実盛とされ、初代は伊達家に仕え、オロチ退治をして鬼庭姓となり、代々長命な家系でした。
良直は、若いとき武田信玄のもとで軍学を学び、幼い武田勝頼(信玄の四男-庶子)に会ったと記録にあります。
武田信玄は、伊達家と軍事同盟を結んでいて、上杉家と戦う伊達家とは仲が良く、良直は、川中島の合戦に武田信玄のもとで参加したらしいです。
伊達家の重鎮として活躍した鬼庭良直は、伊達家の若い家臣たちを見て、まるで死に場所をさがすかのように討ち死にします。
良直と正室(本沢氏)には女子がいましたが、男子がなかなか出来ず、側室(牧野氏)に男子が産まれると、正室と女子を離縁し、牧野氏を正室とします。
離縁された本沢氏は、片倉氏に再婚します。そこで産まれたのが片倉小十郎景綱であり、離縁した女子はのちに片倉喜多となります。
牧野氏から産まれた男子が鬼庭綱元、のちの茂庭綱元でした。
片倉姉弟と茂庭綱元は、伊達政宗公の家臣として、歴史に名を残しています。
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人取橋の戦いのとき鬼庭良直は70歳を超えており、政宗公にいとまごいをし、鎧、兜は重いからと脱いで戦いに行ったそうです。政宗公は「死ぬな」と命じます。
しかし、わざと目立つ黄色の帽子をかぶり、敵の最前線に立ち、討ち死にします。
輝宗公夫人が殉死を禁止したのに、遠藤基信が殉死しますが、そのときから良直は輝宗公に殉じたい思いはあったようです。
伊達家は、他藩に比べて非常に殉死者が多く、禁止令が出たほどです。それでも追い腹を切る者は後を絶たず、茂庭綱元が隠居し自ら墓を建てた栗駒文字村洞泉院の石像の後ろには、殉死の禁を破り綱元の後を追った土屋孫右衛門の墓があります。
幽峰
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