松平松千代。徳川家康公の七男にして、長沢松平氏を名乗るのですが、6歳にて亡くなる。
実は、松平忠輝公(辰千代)の弟ですが、ふたりは双子とされます。墓は、三河岡崎にあるはずが、現存しない。
松千代の死後、長沢松平氏は、忠輝公が継ぎますが、忠輝の改易(五郎八姫と結婚2年後)で断絶します。
長沢松平氏の一族が残り、知恵伊豆と呼ばれた松平信綱がいて、大河内松平氏となります。
実は、忠輝公の兄、結城秀康公も双子だといわれ、父の家康公も双子との説があります。
★★★★★★
昔、双子は’獣腹’と言われ忌み嫌われた時代がありました。家康公には双子が数組おり、生まれるとすぐにどちらかが消された(出家)ようです。
小説「ザ・マサムネ・コード」では、6歳で死んだはずの松千代が実は生きていて僧になり、政宗公の長女五郎八姫と結婚後改易された忠輝公と、あるとき入れ替わった、その舞台となったのが飛騨高山城である。
忠輝の身柄を預かったのは城主の金森重頼。政宗とは以前から交流があり、元和4年(1618)「月見の連歌会」に政宗は招待された。
その時の政宗の句
陰シモ晴ルモ同じ天ノ原
今宵ノ月ノ名ヲヤナガメン
公式記録ではこの歌会の翌年、忠輝は飛騨高山を追い出されて諏訪に移り(この時35歳)、没する92歳まで貞松院で過ごした。
この寺には、忠輝が描いたと伝わる一幅の俳画が残されている。長い杖を持った僧侶が左に墨で描かれ右を向いている。
その横に『戸をたてて僧は入りけり 秋の暮』
陰陽では、左向きは陽の出船、右向きは陰の入船と解す。
「戸をたてて」とは「閉まっていた雨戸を外して脇に立て掛け」という’密かに入った’意味であり、「秋の暮」は「中秋の名月の日暮れ」のことである。
つまり「8月15日の夕刻に、僧の姿で閉じていた雨戸を外して密かに入ってきた」となる。
忠輝と松千代が入れ替わった瞬間を描いたように思える。作者は、松千代だ。
月見の連歌会が催された年、五郎八姫は江戸の仙台屋敷で幽清を産んだと思われる。そして2年後の1620年、五郎八姫は仙台へ移った。
忠輝も幽清も、実は仙台に居たとなれば、五郎八姫が生涯独身を貫いた理由もうなずける。
幽峰
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