戦時中、旧日本軍によって埋められたとされる山下財宝。
今もトレジャーハンターが追い続けているようですが、そのもっとずっと前に、
支倉常長率いる伊達の慶長遣欧使節が隠したキリシタン財宝が、あると思います。
ローマ教皇に謁見しキリシタンとなって帰国した常長さんが、手ぶらで帰ってくるはずがない。
通商交渉に失敗したのは決して常長さんのせいではなく、すでに日本では禁教令が出ており、キリシタン弾圧は東北にまで及んでいた。
常長さんとソテロ神父、迎えに行った横澤将監たちは、政宗公の命で帰路途中のフィリピンに2年間足止めされた。
日本では、迫害により島流し先としてフィリピンに渡ったキリシタン大名たちもいる。
同時期、タイミングを合わせるように、なぜか茂庭綱元が高野山(成就院)へ入っている。(となりの九度山には真田家が幽閉され、伊達家との繋がりが出来ている)
サンファンバウチスタ号はフィリピン総督に買収され、常長さんは1620年9月、別の船を造船し帰朝、(綱元の手配で?)無事に仙台へ着いたが、同年8月に合わせるようにして、キリシタン五郎八姫が江戸から仙台へ移り住んだ。
このとき、五郎八姫は結婚した家康公の六男忠輝と、わずか2年で離縁させられ、そのとき妊娠が発覚、秘密裏に男子を出産している。
ソテロ神父は翌年(1621)マニラから薩摩に潜入しようとして捕まり、政宗公の嘆願空しく3年後(1624)長崎で火刑され殉教。
常長さんも帰仙2年後(1622-52歳時)に病死したと幕府に報告されているが、大郷町に84歳まで生きたとされる記録が密かに残されている。
迫害が厳しくなっていく仙台藩で、常長さんが持ち帰ったヨーロッパの’お土産’は、幕府の監視下、横澤将監の知行地である現泉区赤坂の山中で焼却したという記録がある。
のちに政宗公の墓から出てきた金のブローチや、出所が不明の燭台など、常長さんが持ち帰ったと思われる品々の【ごく一部】が博物館に展示されている。
京都の祇園祭・鯉山に使用されているタペストリーは、常長さんがローマ法王パウロ五世から授かったものとされる。(仙台から会津へ渡り、京都の商人が買い取ったらしい)
7年に及ぶ常長さんの航海日誌は、明治以降いまだ行方不明のまま。
なので、常長さんたちがフィリピンに滞在していた2年間の記録が、全く、無い。(常長さんが息子に宛てた手紙のみ)
航海日誌を持ち去られたために、支倉常長の偉業は封印され、昭和になってようやく日の目を見ることとなった。
さて、ここからは妄想(THE MASAMUNE CODE)です。
政宗公が、常長さんたちをただ2年間フィリピンでボーっと過ごさせるわけないですね。
日本の奥州王伊達政宗公に献上する’極上のお土産’は、幕府に没収されないよう、’ダミー’が作られた。
それに、同行した横澤将監は仙台藩の土木エンジニアですよ。
’本物’は、フィリピンに隠して、禁教令が解けるまで秘密に。そのうち伊達騒動でそれどころではなくなっただろうし、何度も訪れた自然災害で飢饉に陥った仙台藩は、財政難に苦しんだ。
フィリピンに船を出す余裕など、ソレ以降無かったはず。
なにより、キリシタン関連のお宝は、当時の藩の財政を潤すには値しなかったとすれば、放置された可能性も。
支倉常長の研究では第一人者の大郷町東光寺故佐藤宗岳師の著書によれば、メモリアルパークの墓を掘り起こしたときに出てきた’もの’が、北海道へ渡ったこと、支倉家家中佐藤家の蔵にあった古文書が散逸したことも、徹底的に調査すべきだ、と思うのですが。
仙台藩のキリシタン財宝(金銭的価値を超越したもの)は、フィリピンにまだ埋もれているかもしれないし、もし常長さんの航海日誌が見つかれば、計り知れない真価を見ることになる、でしょう。
~幽峰~
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