仙台に城が作られたとき、まちの縄張り、つまり設計を行う。この時、使った縄張りの縄を焼いて埋めたのが野中神社。
仙台城を作る際、仙台周辺からひとが集められ、’こびと’と呼ばれる下級武士たちも集められた。
このときに揉め事がおこる。
史実では、下級武士たちを単なる労働者として扱い、怒った下級武士たちが現場監督の武士を殺害し、仙台の南にある愛宕山に移っていた覚範寺にたてこもる。
覚範寺は、伊達政宗公の父、輝宗公の位牌を祀る寺で、山形米沢、岩出山と移転を繰り返していた。
その寺にたてこもる武士たち。伊達政宗公は仙台には不在。留守を預かる茂庭綱元さまは、覚範寺に鉄砲を打ち込み、下級武士たちを全滅して焼いてしまった。
このことは政宗公に報告され、茂庭さまは謹慎。覚範寺は仙台の北にある北山に移転。跡はしばらく空き地にされるが、愛宕山に愛宕神社が移り、山の下に寺が建てられる。これが史実。小人騒動 こびとそうどう、と呼ばれる。
でも、真相はわかっていない。
この直後、それまで仙台を管理していた国分氏が追放され、小人騒動は歴史から消された。
ただ、殺害された下級武士たちを埋めた塚を兜塚として長町に残された。戦後に調査され、古墳跡とされた。いまは某県立高校の敷地内となり、フェンス越しにしか見ることはできない。
兜塚は、こびとつかと呼ばれたが、いつしか兜塚と呼ばれた、または敗れた奥州藤原氏の武士を埋めたからとも言われた。
★★★★★★
小人は罪人も含まれる。城には極秘の抜け道なども作られ外部に漏れないよう完成後に処刑されたという。
小人事件は、茂庭綱元の指揮でわざと暴動を起こさせた説あり。
焼失した覚範寺跡に建てられた寺(妙見堂)は、愛宕神社の表参道入口の道路を挟んで向かい側にある。
一番町サンモールの野中神社は、縄にちなんで縁結びの御利益になっている。~幽峰
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