政宗公が城下の縄張始めを行ったのは慶長5年の12月24日。
クリスマスは、イエスキリストの誕生を祝う日ではない(←そもそもキリストの生まれた時の記録が無い)
もともとは、太陽が生まれ変わる日、冬至を祝う祭りだった。この日を境に太陽は夏至に向かって上昇していく。
古代の太陽信仰。
二至二分の太陽の運行を計算して建てられた神社が日本にたくさんあるが、仙台城下では、愛宕神社を現時点で提唱します。
青葉山と愛宕山を結んだラインが、冬至の日の出方角に近い。
去年愛宕神社から撮影した日の出です。太陽は参道を昇って山頂の最古の鳥居をくぐり、本堂の御神体を照らす。
はずでしたが…
鳥居をくぐった太陽光は、まっすぐに本堂へ入りませんでした。
おかしいなと思ってよくよく調べてみると、この神社は慶長8年に政宗が米沢から定禅寺あたりに遷座して、慶安3年に忠宗公が愛宕山に新しく造立、元禄7年に綱村公が修復したとされる。wikiによると、現存する本殿・社殿の建築技法は元禄年のものとしたほうがよさそうで、綱村の時の「修復」も実は新造だったのではないかと言われる。
もともとの位置から少しズレたか。。。または計測ミスか、、、
太陽光がまっすぐに本殿に入るのは旧正月の2月5日頃。
この本殿の裏手には青葉山にあった千躰仏が祀られている(麓の大満寺管理)。その前は経ケ峰にあった。つまり冬至の日の出ライン上を転々と動かされている。
このライン上には政宗が自ら死後埋葬するよう遺言した経ケ峰(瑞鳳殿)や、古代の横穴墓群、古墳があるから、太陽とともに来世を願う宗教的(死生観)意味合いの濃い場所だったと考えられる。
政宗公は縄張り始めの日、青葉山から日の出を眺めたと思う。
太平洋から昇る太陽は、愛宕山を超えて青葉山の千躰仏と自分を照らした。
政宗公は眼下に広がる荒野に城下町を造るという大事業を、’驚異的’なスピードで実現した。
このときすでに、グランドデザインは完璧に出来上がっていたからだ。
バックボーンにあったのは、徳川家康。
~幽峰~
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