仙台伊達家の記録、伊達治家記録、だてじけきろく、と読みます。
四代、伊達綱村公により、編纂されている。
以降、明治まで伊達家の記録としてまとめられたが、全ては公開されていない。
江戸時代の大名家では様々な形で、歴史的経緯を記録にし、公開されている。
薩摩藩、加賀前田家にもあるはずですが、仙台伊達家の記録は原則公開しないことにしているかも。
原本は、仙台伊達家の秘蔵とされ、いまに至るらしい。秘蔵の本はあるの。
研究する方のご尽力いただいて、公開してほしいんですが。
陸奥国風土記
奈良時代、全国の歴史、文物を記録させた風土記。現在は、ほとんど残っていません。
完全に残るのは出雲風土記のみ。
なぜ残ったのか。出雲には出雲国造家が残り、出雲大社にいたため。風土記は、大和朝廷から全国に赴任した国造が記録していて、全国は大和朝廷からきた行政官である国造が管理していた。
後に、大和朝廷が瓦解し、武家の時代になると国造の管理から武家が切り取った土地を支配して武家政府、幕府の時代になる。
すると、武家政府には不都合な記録がある風土記は忘れられてしまい、散逸します。
陸奥国風土記は、一部しか残っていません。というか、奈良時代までの陸奥国は、現在の福島県と宮城県の中部までしかなかった!
宮城県の北半分、岩手県、青森県は、夷狄(いてき)の地であり、大和朝廷の管理になかった。
坂上田村麻呂の時代になり、宮城県北部、岩手県、青森県の南まで大和朝廷の管理に入り、陸奥国が広がります。その新たな管理者が征夷大将軍であり、軍事組織のトップになります。
陸奥国は、奈良時代には国府は、多賀城に移るまでは宮城県南部にあり、田村麻呂の時代に多賀城が国府に確定します。
仙台に国分寺があることから、奈良時代に仙台に国府があったらしい。
伊達政宗公が仙台に城をつくり、陸奥国の管理者だった陸奥守となるのも、もしかして陸奥国風土記を知っていたかもしれない。
★★★★★★
治家記録は伊達家の正史として図書館で自由に閲覧できるが、知りたいことが載っていない…
『秘史』はたしかに存在するはずだ。~幽峰
2 Comments
多賀城は宮城県北部の加美郡に作られた城郭です。737年続紀に雄勝村から百六十里(約80Km)の所に作られていた城です。現在の大崎市黒川宮沢付近の宮沢遺跡と推定されます。780年の伊治城の乱で国司等が多賀城へ逃げ込みました。直線距離で15Km程度。しかし、現在多賀城跡としている所は江戸時代に比定され、多賀城碑が出土したことから多賀城跡とされた経緯の場所です。伊治(栗原)から直線距離で約50Km百里もあり簡単に逃げ込める距離ではないでしょう。737年、780年続紀の記述から本当の多賀城は加美郡にあったと言えます。多賀城市の多賀城跡を発掘しても東鑑に記された多賀国府時代の遺構は検出されませんでした。東鑑文治五年条には多くの曲筆が含まれていると考えざるを得ません。
大同五年五月十一日の太政官符に陸奥国府の行程情報が記されています。信夫以南遠郡すなわち、陸奥国南端郡から国府まで二三百里(100~150Km)を当てはめると信夫郡となり、国府は信夫郡に存在したと言えます。藤原基衡が在国司目であったとき公田(国衙領)を押領しているとして陸奥守藤原師綱に糾弾されたのも信夫郡ないでした。陸奥国府が信夫郡にあった事と矛盾なく整合します。
陸奥国の歴史を考える上で忘れてはならない人物の一人に藤原緒嗣がいます。
780年の伊治公呰麻呂の乱後、陸奥国内(伊治以南)の城塞は悉く逆賊(一度は朝廷に従い反乱)に占拠され、八世紀初頭の陸奥国境界(刈田郡南端)まで逆賊は侵攻し刈田郡南端部の山腹に逆賊の要害を築きました。現在の地名は国見町光明寺東越山です。東越山(あつこしやま)。東鑑はこれを万葉仮名風に阿津賀志山と記し藤原泰衡が作った要害の如く記すが780年に築かれたものである。ここから逆賊は陸奥国府域へ侵攻する動きを見せたため、征討使は辺りの木を伐り、小径を塞ぎ、堀と険を作った。現在厚樫山防塁と称する遺構です。東鑑は藤原泰衡が俄かに作り逢隈川の流れを堰いれたと記すが逢隈川の水面の標高は40m、堀の標高は50m~100mあり堰入れることは出来きない構造である。東鑑の曲筆である。東越山に要害を築いた逆賊の帥は夷大墓公阿弖利爲と考えられる。胆澤の逆賊であれば胆澤公阿弖利爲の筈である。東越山山頂付近に馬ノ墓という地名がある。馬? 馬は駒、駒は高麗、
坂上大忌寸刈田麻呂の忌寸は渡来高麗系人物である。刈田郡に高麗系移民の墓所があり、その付近を拠点とした人物ゆえに、夷大墓公阿弖利爲と呼ばれたと考えられる。磐具公母礼の磐具は伊具と同じと考えると、刈田と伊具は逢隈川両岸の地である。この地を逆賊に押さえられ官軍は長期間、賊地(刈田以北)へ侵入出来なかった。延暦八年六月三日に官軍が敗績し多くの溺死者をだした現場である。現地の地形は敗績した状況を彷彿させる形態である。兵士が泳ぎ渡ったような所に兜渡という地名が地形図に記されている。