古くから米沢にある八幡神社であり、伊達政宗公の重臣 片倉小十郎が生まれた家でもありました。
小十郎の父は、成島八幡神社の神官とされ、母は鬼庭良直さまと離縁して片倉家に嫁ぎ、小十郎を産みます。
両親の死後、異父姉の喜多に育てられ、伊達政宗公の守役となります。神社の神官を継ぐことはなかったらしい。
伊達家が米沢から岩出山に移る時、神社は米沢に残りますが、伊達は密かに御神体を岩出山に移したらしいです。
岩出山から仙台に城を移すときに、政宗公は成島八幡神社の御神体と大崎八幡の御神体を合わせて、大崎八幡宮を建立します。
大崎八幡社は、大崎氏が岩手胆沢にあった鎮守府八幡宮を大崎田尻に移し、大崎八幡社としていました。
鎮守府八幡宮は、鎮守府である胆沢城の鎮守として坂上田村麻呂が創建したとされる。
大崎八幡社を改めて、大崎八幡宮として成島八幡神社を合祀し、伊達家、仙台の鎮守としたのですね。
大崎八幡宮には御神体の座が四座あるとされ、公式には三柱のご祭神です。
いま、ひとりはだれか?
大崎八幡宮にはかつて羽柴祭という祭事があり、仙台東照宮と対を成していたらしい。それはともかく。
片倉小十郎の生家、成島八幡神社はいま、仙台 大崎八幡宮に合祀されたという言い伝えです。
いまは昔の話です。
★★★★★★
政宗公が大崎八幡宮の奥の院に豊臣秀吉を祭ったことを裏付ける史料として、
1612年慶長17年11月の茂庭家記録によれば、高田種子36歳時に大崎八幡へ金の灯篭(とうろう)ひとつ献納したと書かれています。
『大崎八幡内陣の内に豊國大明神を祭り給うの所あり其の所に国君より献じ給う金灯篭三つと同然に掛け置かる・・・』
これをみると、豊臣秀吉が豊国大明神という神様になって祭られ、国君とは徳川家康のことと思われますが、このときすでに三つの金灯篭が掛けられていて、その隣に種子の金の灯篭が掛けられたということになります。
*高田種子–京都伏見出身、秀吉の側室だったが茂庭綱元が秀吉との碁の賭けで勝ち、綱元の側室となる。通称「香の前」
~幽峰
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