徳川家康公には、実は同じ日に生まれた弟がいて、双子説がある。弟は病弱でほとんど顔は知らない家臣がいたとか。
極め付けは、京都の賀茂神社に生まれて、天皇の命令で三河にいき、松平家に入った説。
世良田次郎三郎説は、有名だけど、それとは違う。
関ヶ原の戦い後または、大坂冬の陣のとき、京都の賀茂神社関係者を抹殺した説。
冬の陣では家康公が真田幸村に実は槍で刺され、堺で陣没。徳川家は影武者を立て、豊臣滅亡後に鯛の天ぷらにあたり死んだことにした。
賀茂神社関係者抹殺は、天海が命じて、一族はほとんど消えたらしい。とか。
徳川家康公が大坂冬の陣で暗殺された説。
大坂冬の陣で、籠で移動しているとき、真田幸村に槍で刺され、重体になり、慌てて堺に下るも絶命した。
徳川家は、河内にいた老人を身代わりにたて、家康公を堺の寺に埋めた。
いまも堺の寺に墓がある。孫の家光まで墓に参拝したらしい。
実は、大坂の陣で家康公が乗っていた籠が日光東照宮に残されている。
この話、真田幸村が刺した槍が村正だったらコワイですね。
村正の刀は、家康公の祖父、父の暗殺と、長男岡崎信康の介錯に使われた。
関ヶ原の戦いのとき、家康公が戦功のあった家臣が使った槍を手にしたところ、誤って家康公の手を切る。
村正の刀を槍にしたと知った家康公が、村正は我が家にたたる、と機嫌が悪くなり、徳川家では家臣が村正の刀を持つことをタブーとした伝承。
堺には本当に家康公の墓はある。
なぜあるかは、わからない。
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