先日の講座でも訂正しましたが、
平城京、平安京時代に描かれた近畿の逆五芒星は、当時の陰陽寮で活躍した陰陽師安倍晴明が張った結界であろう、
と過去の講座で何度か話してきましたが、
今回南光坊天海について調べていくうちに、全くの間違いであったことを訂正します。
まずは年表を作ってみたら一目瞭然です。
安倍晴明が生まれたのは遷都から120年以上も後ですね。
奈良の都が作られた時にはすでに構想が出来上がっていたでしょうから、
この結界は遣唐使によるものですね。最澄と空海も留学僧。
それにしてもすごいです。
改めて、見事に正確な五芒星を描いてる。
264年も続いた遣唐使派遣は、菅原道真が最後の大使に任命されて中止となった。
その理由は、唐(中国王朝)で内乱が起き情勢不安になったことと、
日本国内で大災害が起きてそれどころじゃなくなったこと。
一旦中止が、ずっと続くうち唐が滅亡した。
遣唐使が中国から持ち込んだ風水、易、天文などの高度な学問が
のちに天海などの高僧に受け継がれ、都市づくりに応用されたんですね。
ちなみに仙台藩の虎哉和尚(*)や大有和尚(*)は、天海さんと同年代。
ともに京都で修行し学んだと思われます。
なぜなら、遷都と共に京都に建立された大将軍八神社(星の神様を祀る)に、天文に関する資料が集結したから。
仙台六芒星のど真ん中を貫く東西南北のレイライン(グランドクロス)上にはみっつの城がある。
これらは幕府が伊達を牽制するために置いた(?)
家康が六芒星の存在を知らずして、この配置はありえない。
家康の聖なる三本のラインのひとつを伸ばしていくと仙台に行きつく。
つまり、久能山-世良田-日光-仙台という東照宮のレイラインが描かれる。
家康から天海への遺言は「久能山に葬り」一周忌が過ぎたら「日光山にお堂を建て分霊を祀れ」
天海は遺言を遂行し、自身は江戸城の鬼門寛永寺にて死没、日光山の慈眼堂に眠る。
徳川と伊達をレイラインで繋ぐには、この3人の高度な知識が必要。
推測ですが、国分氏の時代から天海は仙台の地形を把握していたと思われます。
現仙台東照宮のある場所は、もともと国分氏が自分の城(青葉山)の鬼門に置いた天神社があった。
それをわざわざどかして榴ヶ岡に移してまでも、そこに家康公を祀ったのは、
天海さんの伊達家への遺言だったのではないかと妄想します。
*虎哉宗乙/政宗の幼少期からの教育係、仙台の四神の青龍・松島瑞巌寺を再興(四神は中国の星宿図と同角度で地上に降ろしている)
*大有康甫/六芒星の頂点東昌寺の初代住職、政宗の大叔父で政宗の教育係に虎哉を推薦