茂庭石見綱元(もにわいわみつなもと)
茂庭家12代当主、天文18年(1549)1月11日の酉の刻、奥州伊達郡鬼庭村赤館に生まれた。
幼名を左衛門(さえもん)、後に石見綱元と改名。
綱元が生まれた1549年は、8月15日 にフランシスコ・ザビエルらの一行が鹿児島に上陸、キリスト教日本伝来の年。
茂庭家は代々伊達家に仕える世臣で、弁舌、交渉に長け軍略にも優れた軍師の家系でした。
父良直は武田信玄のもとへ武者修行にも行っています。
世継ぎとなる男子が欲しくて側室を持ち、白鳥明神に願をかけて、酉年の酉の刻に綱元は生まれました。
そのため白鳥明神の化身といわれ、戦での雄姿には頭上に白鳥が舞っていたと伝えられています。
人取橋の戦で、父良直は窪田十郎に額を割られて息絶えました。
後に、窪田十郎が政宗に投降した際「父の敵を討て」と綱元に引き渡したところ、
綱元は
「戦場での殺し合いは皆主君のため、個人的な恨みではありませぬ。まして降人を討つのは武士の本分には非ず。
この者まだお役にたちましょうゆえ、召しかけてお使いになられたらいかがでしょう」
と答えました。
感心した政宗は窪田を綱元の配下にしました。
政宗の五男宗綱を綱元は大そう可愛がり、立派な武将に育てることを夢見ていました。
しかし宗綱は16歳でこの世を去り、悲しみのあまり綱元は政宗の引きとめにも拘らず、高野山(真言宗本山)に入道、僧侶として3年を過ごし、
戻ってからは茂庭了庵という号を名乗っていました。
茂庭父子は熱心な仏教徒であり、常に反切支丹の中心でした。
息子の周防守良綱は、キリシタンに憎悪すら抱いており、広瀬川の河原でのみせしめ処刑の指揮をとり、切支丹禁圧へと向かわせました。
政宗公の死後、綱元は宮城県北部栗駒の文字村に洞泉院を建て、政宗と宗綱の位牌を祭って菩提を弔いました。
そして自分の墓石となる石像を自ら彫り、寛永17年(1640)92歳で亡くなりました。
命日は、奇しくも政宗と同じ5月24日。
綱元の墓石像は、両手を合わせ南を向いています。
石像の後ろには、殉死の禁を破り綱元の後を追った土屋孫右衛門の墓が、その横には綱元の墓守をした遊佐道海の墓があります。
この道海の命日も5月24日なのです。
仙台では毎年5月に「青葉祭り」という盛大な芸能祭りが2日間にわたり行われています。
昔は政宗公を祀った青葉神社の礼祭で、命日の5/24に多くの山鉾が市中を練り歩きました。
現在は、仙台三大まつりのひとつとして市民に定着しましたが、政宗公のほかに、綱元さんや道海さん、それから殉死した土屋さんも、年に一度思い出す日になりそうです。
青葉神社の行列を先導する「猿田彦神」の化身に扮するは”いなべの晴明”
神輿は政宗公の御神体。
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