政宗公の父、伊達輝宗公には側室はなく、夫人の義姫との間に二男二女があり、成長したのは政宗公と弟、小次郎君だけとされています。
小次郎君は、竺丸 -じくまる と呼ばれ、母 義姫の寵愛を受けて育ち、そのため政宗公より小次郎君を伊達家当主にとの話があり、伊達家の内紛になりかける。
父、輝宗公が政宗公の素質を見抜き、片倉小十郎、茂庭綱元を政宗公につけ、さらに伊達成実公をそばに置かせます。
輝宗公は、政宗を当主にし、政宗になにかのときは成実に伊達家を委ねようとした形跡がある。
輝宗公の死後、遠藤基信が殉死したのは、小次郎派に巻き込まれることを恐れたからかも。
小次郎君は、政宗公に手打ちにされ、その遺体は、小次郎の守り役 小原縫之助が守り、各地を転々として、いまの登米市津山に埋葬され、その前で小原縫之助は自害します。
政宗公から小次郎君は、7代後まで勘当するといわれていて、そこから七代後の藩主により菩提寺から藩に勘当を解くよう願いがあり、いまの墓石が建てられた。
登米市津山のその地は、かつて 政宗公の母 義姫の化粧料とされていて、義姫の土地であった。
いわゆる藩が入れない治外法権の土地であったのです。
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近年、あきる野市の大悲願寺で’秀雄和尚が政宗公の実弟である’という記載の古文書が発見された。黄河幽清が生まれてすぐに大悲願寺に預けられたとすれば、幽清にとって秀雄(小次郎)は父であり師匠に近い存在。政宗公はちょくちょく秋川に川狩りに出かけ、大悲願寺に休憩に立ち寄っている。秀雄とはその後も交流があったということになる。政宗公が小次郎を本気で勘当したなら、孫を預けることもしないだろう。
今日、12月12日は松島天麟院第二世黄河幽清の命日である。幽峰
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