仙台藩第7代藩主。
6代藩主伊達宗村公、側室性善院の間に生まれたが、’正室の子’とされた。
宗村公の正室は、8代将軍吉宗の養女であり、重村公は吉宗公の孫にあたる。
9代将軍徳川家重公の一字を賜り、重村となり、藩主となると陸奥守に任じられる。
重村公はその官位に満足せず、幕府、朝廷に賂(まいない)を贈り、官位を上げようとする。
また、他の大名に負けたくないと、蚊を打つピストルを作らせてみたりしたらしい。
なかでもライバル視したのが薩摩藩主島津重豪公。
島津重豪公の祖母は、8代将軍吉宗の養女になり、島津家に来た竹姫。吉宗の恋人とされたあの竹姫。
同じ徳川家一門として重村公と重豪公はライバルとなり、重村公の死で薩摩の勝ちとなる。
重村公は、仙台の街の牢獄に人がいると、
余のまつりごとがわるいのか?とイラつき、家臣が牢獄をからにすると、喜んだりしたらしい。
また、短気で知られ、食事のとき、手にお湯がかかると激怒して、「家は断絶、腹を切れ」と家臣を怒り、夫人がなだめた話も残っている。
隠居して、江戸にいたが、子息の8代藩主夫人、続いて8代藩主が急死すると、気落ちからか、重村公も亡くなる。
仙台藩は、重村公のうまれたばかりの一歳の孫が藩主となり、重村公夫人、伊達家親類の大名たちが後見となる。
これより仙台藩は、明治維新まで政治の混乱に呑まれていく。
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